“ジキル菊池門下生”
今回は“ジキル菊池”こと太田プロマネージャー、菊池さんの事を書きたい。
そもそも外部の人間は、殿と菊池さんの関係は分かるが、そこにボーヤが加わった3者の関係については、よくわからないと思う。
まず断っておくが、何らかの形で殿の周辺に潜り込んだ程度では菊池さんに言わせれば「たけし軍団」ではない。
セピアも「たけし軍団セピア」が正式名称だが、菊池さん的には「たけし軍団」ではないらしく「勘違いするな」と再三言われていた。「セピアはタレントではない」という意味だ。
「たけし軍団」とはあくまで10人のメンバーの事を指す。
しかし、殿はその10人の「たけし軍団」をも普段は「ボーヤ」と呼んでいた。
これをどう受け取るか。
自分はこれを「俺に頼らず一本立ちしたらその時に初めて“弟子”と呼ぶ」とのメッセージと受け取っていた。
何事も言葉少なで「察する」事を求める殿は肝心な事柄になるほど、言葉にはしない。
とはいえ、これは自分の憶測に過ぎない。しかし答えは常に“易きに流れぬ”方向にあると信じている。
自身を決して“師匠”と呼ばせない事も同じ理由と思っている。
そこに則るなら“ビートたけし”の名刺でメシを喰ってるうちは“弟子”ではないのだ。
俺から見ても現在まで広義の「たけし軍団」は徒弟の関係ではなく、殿が社長を務める企業の「社員」の関係に見える。
そんな彼らは「ビートたけし」という既得権益のしがらみの中で禄を食む存在だ。
なぜなら“ビートたけし”の背景を取り去って、存在が成り立つ人間は1人も居ないではないか。
所属する事務所も、ほぼ殿のワンマンだし、会社から給料をもらってるクセに好き勝手な文句を言い、俺なら絶対に拘るであろうこう言った「在り方」に無頓着な様子も実に「サラリーマン」然としている。
他の業界でも徒弟の世界にいる者なら、これは充分に理解してもらえるものと思う。
ーーこのような言葉がある
弟子が師匠を越えるという意味である。
お笑いのみならず、今や俳優、画家、映画と幅広く手を染める人なので、容易ではないが、当時、ボーヤを務めるほどにその人間性に惹かれた自分は「早く一本立ちしなければならない」とこの言葉とともに心に銘記したものだ。
だから、一般的には簡単にたけし軍団を“弟子”と呼んでしまうが、厳密にはそう簡単な話ではない。
また、そのまんま東を“一番弟子”と表現する記述を時折目にするが、本来は入門順ではなく「一番優れた弟子」という意味だ。板前の世界での「一番包丁」をとる人物をいう。
最初に入った弟子が辞めてしまえば“一番弟子”がいないおかしな事になってしまうので、厳密にはそういう事で、腕を磨けば誰にでも“一番弟子”を目指す事が出来る。
さて、漫才師に師事するといっても何を学べば良いのか。具体的にこれは実に難しい。
「殿の傍にいればそれだけで勉強になるか」と言えばそんな単純な話ではない。
落語の世界では師匠が稽古をつけてくれるが、漫才に2人でやる「スタイル」はあっても「型」はない。
結局学ぶものは「師匠の仕事に対する姿勢」となり非常に高度。一定の感性を持ち得ない人間は何も学べない事を意味する。
感性の乏しい者は表面上の事しか分からずそれで終わる。
よく東京生まれでもないのに「オイラ」だのと殿の口真似をするメンバーがいるが、あれが最たるものだ。首をカクカクさせるチック症の真似をするアホまでいる。そんな奴は弟子ではなく俺が思うにタダのファンだ。
では具体的で実の伴った「修行」と言えば常に帯同し師の姿勢を学べる「専任ボーヤ」しかないと断言する。
もともと当時悩んでいた俺もラッシャー板前から「専任ボーヤ」を勧められたのだ。
但し、殿が何かを具体的に教えてくれる事などなく、すべて自分次第だ。
何かあっても叱ってくれさえもしない。
それを「仏様の包容力」と表現する者もあるが、なにしろ面倒くさがり屋であるし、おそらく「感じない人間には言った所で理解も出来ないだろう」との理由からではなかったか。
ーー菊池さんは当時のマネージャーだが、そんな殿に代わってボーヤの作法を全て教えてくれた。
本来、マネージャーにとって所属事務所のタレントの弟子の教育などは担当外だったと思う。
果たして、殿から事務所にその旨を頼んだかの経緯は知らない。
菊池さんは太田プロ、磯野勉社長の実弟で、代々太田プロの看板タレントのマネージャーを務めて来た、事務所きってのエース。姓が違うのは事情があるらしい。
「専任ボーヤ」は基本的には殿へタバコを差し出し火を点けたり、飲み物をタイミングよく供するなど、殿の仕事周辺一切を恙なく補助するのが仕事だ。
その代わりにそういった中から様々に芸事に通じる感性や思考を学ぶ事が出来て、大きなメリットがある。
菊池さんはあくまで太田プロの社員であるから、仕事での時間帯は菊池さんが付くが、仕事以外でプライベートの時間帯はボーヤだけになる。
問題はその教え方が非常に荒っぽく、1度教えた事を誤れば手が出る。
そこは徹底して容赦はない。自分もファンが大勢いる前で殴られた事も1度や2度ではない。
最初は本当に困った。何をしてよいかさっぱり分からない。そのうえ連日、怒鳴られ叩かれるだけだ。
しかしある日見かねた菊池さんが助け船を出してくれた。
「お前は本当にどうしようもないね.......まず、自分がどうされたら嬉しいかを考えろ」
その上で「常に先を読んで行動しろ」とも。
これは非常に明快なポイントだった。幸い殿と自分の「どうされたら嬉しいか」の感覚が近かった事も状況を助けた。
そこを糸口に、自分なりに試行錯誤を重ね反応を確認しながら「気の利かせ方」を研ぎ澄ませていった。
それを地道に積み重ね、殿との信頼関係も次第に育まれて行ったと思う。
菊池さんは「バカだなお前は!」とカンカンになって怒るだけではなく、怒りがマックスだと抑揚のない声で「殿が探してるよー、何やってるのー」となり、これがとてつもなく恐ろしい。
菊池さんからの厳しい日々の薫陶に加え、何かと軍団の兄さん達と現場が一緒になるのだが、ただでさえ忙しい中(当時セピア以下はこんな時は完全に自由行動だった)まるで師匠気取りで、自分にあれこれ用事を申しつけて来る。
それも「飲み物を買ってこい」だの「自分で行けよ」と言いたくなるつまらぬ用事ばかり。こちらは殿関連の仕事に分刻みで追われているし、ミスれば怖い菊池さんが黙ってはいない。
当時10人の「たけし軍団」内にはあまり「上下関係」は存在せず「なあなあ」で、セピアが出来てから極端に上下関係を敷くようになっていた。
殿に尽くすのは納得がいくが、これは正直堪らなかった。しかしこう言った「ワガママで、なっちゃいない」先輩に「自分は絶対になるまい」と心底決意した点では意味があった。
ラッシャー板前が何かと俺を気遣い助けてくれて、常に味方となってくれたのは同様の苦労を体験し兄さん達の身勝手をよく識っていて他人事ではなかったからだった。
ーーそんな日常の中で、このような事があった。
立川流一門会で有楽町マリオンに行った。立川錦之助の名で殿も一門だ。当日に出演があり楽屋に入ると、そこは顔を合わせて賑やかにしようとの趣向か、大部屋で周囲には立川流一門の文化人やタレントがいる。もちろん落語家も。
落語家の世界ではその歴史からか、あらゆる礼儀・作法が定まっており、ボーヤに相当する、入門からまだ日の浅い若手は、師匠の世話をするにも常に懐に忍ばせた日本手ぬぐいを駆使し、茶を供する時も、濡れているかは別として、湯飲みの底を拭ってから手渡すなど、全ての所作に形式と様式美のような流れがあった。
そんな光景を陶然と眺めていると後ろから
「大道。気にするな。いつものお前のやり方でやれ」
と厳とした口調で菊池さんに言われた。
また、まだ当時新宿の河田町にフジテレビがあった頃、水曜日が「オレたちひょうきん族 」の収録日で、地階のクロークには局が用意したりタレントが持ち寄った茶や菓子が常に置かれていた。
たまたまその日は殿の大好物である醤油煎餅があった。
スタジオに向かう時、殿はそれに目を留め「大道。あとであの煎餅持って来い」と言いつけられた。
スタジオでリハーサルを眺めていると、たまたまADさんが紙コップにその煎餅を小割りに入れ、他の出演者用に持ち運んでいたのを目にした。
自分もそれを真似、小割にし紙カップに入れた煎餅を殿へ差し出した。
ところがそれを見た菊池さんに後から引っ張られ怒られた。
「お前、ADさんの真似だろ。バカヤロウ!」
怒られる理由もまるで分からない。
それに似たような事は以後も何度かあった。
ともかく様々に荒っぽく「礼儀作法」を教わる中で、「もしかしてこの人は俺を憎いのだろうか」と思い悩んだ。
普段から殿はまず怒る事がない。その代わり菊池さんが異常に怒る。
ほぼ連日悩んだ。
しかも他のメンバーがいる場では、セピアや後輩には優しい。あくまで専任のボーヤである自分にだけ厳しいのだ。
本来は殿に師事し、あくまで菊池さんに師事したのではない。そんなところからも理不尽を感じなくもなかった。
しかしーー「もし本当に俺の事が心底憎いのなら、このような仕打ちになるだろうか」と考えると、そうとは思えない。そこは違うと辻褄からも感覚的にもわかる。
その内に、怒る時にある一定の規則性のようなものを感じるようになった。
そう考えてからそこに「仮説」を立て、検証を重ねる事にした。
そしてそれは次第に確信に変わってゆくのだった。どうも答えが見えてきた。
ボーヤも1年を過ぎた頃だろうか。自分は確信を持って菊池さんに言った。
「菊池さんはボーヤの薫陶を通じて、芸人の考え方やあるべき姿勢を実践的に教えてくれてますよね」
菊池さんはやや驚き俺の目をしばらくじっと見つめたかと思うと、今度は目を逸らし、言葉を選ぶように言った。
「それが分かったならお前はもう卒業だよ」
心なしかその表情にはどこか寂しさの色があった。
“常に物事の先を読んで行動を逆算しろ”
“落語家など、他の世界の作法に安易な影響を受ける事なく身に付いた作法を自信を持って貫け”
“人の安易な真似はしてはいけない。それより自己の個性を重んじろ”
ボーヤの仕事の中で、これらは全て一貫した「芸人としての将来」を志向した上での薫陶だったのだ。
現実的には殿の都合もあり、そこでボーヤは卒業にならなかったが、菊池さんの「狙い」が分かった以上、それ以降は信頼関係が深まるばかりだった。
この菊池さんからの「ボーヤ卒業」を宣言されたのは自分が軍団では初めてだった。菊池さんからの「卒業証書」だ。
ーーしかし最初で最後だった。
事務所がオフィス北野に変わり、菊池さんは担当を離れてしまった。
他のボーヤを務めた先輩達は「卒業」する事なく菊池さんをあるいは憎み「怖く厳しい人」とだけ記憶しモヤモヤしたまま後輩にバトンタッチした事だろう。
「専任ボーヤ」経験者は多くはない。そのまんま東以降、長期間務めたのは自分も含め3名しかいない。
他のメンバーは1ヵ月程度の経験で、当人の話を聞く限りでは深まる事なくごく形式的に終えてしまっている。
俺は殿をして「過去最高のボーヤ」と言わしめたラッシャー板前を常に目標にした。
そのラッシャー板前はやはり「ボーヤの鑑」と呼ばれた松尾伴内を目標にした。
だから、お互い同士にもそういった「専任ボーヤ」にしか持ち得ない体験と価値観を共有している。
他の軍団が理不尽に俺へ用事を申しつける時もこの2人は違って、むしろ気遣ってくれていた。
だから今でも俺は「専任ボーヤ」を務めた歴代の先輩には格別の想いがある。
菊池さんに薫陶を受け、殿の傍に四六時中詰める存在の「専任ボーヤ」時折危険にさらされる場面では殿を体を張り護る存在。
殿に師事すると言っても、現実的には菊池さんが芸人の骨格を創ってくれていたのだ。
今では事務所が変わるに従いそんな在り方もすっかり変わってしまったと聞く。
特に自分の時代は後にも先にもスケジュールが狂気の沙汰だった「バラエティの黄金期」であり、そこからフライデー事件も共に乗り越え、どこか「戦友」といった感覚すらある。
俺はつくづく菊池さんがいた時代に「専任ボーヤ」として「育ててもらった」事に今でも心から感謝している。
巨星墜つ〜春花直樹(春一番)に捧ぐ〜
春一番が、7月3日未明、就寝中に肝硬変で亡くなった。47才だった。
昔から酒が好きだった彼は、飲み過ぎがたたり腎不全で入院。そこからすい臓、肝臓、腎臓と内臓を全部痛め、それが原因で体重が激減。ニュースによると最近骨粗しょう症にもかかっており満身創痍だった。
ニュース欄の訃報に目を留めた俺は「ついにこの日が来たか」と受け留める他なかった。
近しい人間と交わす彼についての話題はここ数年「もう難しいかも」といったものだったし、既に大きなヤマを何度も越えて来たような彼だったから、覚悟を決めていたのはきっと自分だけではなかったろう。
直ちに連絡したある友人は「あらーマジー!いつ?」といった短い調子で、覚悟を感じさせるものだった。
しかし俺もどこかでは「何とか乗り越えてくれるだろう」と願ってもいた。
そして私の胸には、夢であったかと思うようなヒリヒリとした、しかし温かく心地良い記憶が去来したのだった。
ーー彼とはほんの数年、実に濃密な時間を過ごした時期があった。
春一番は、片岡つるはし、江戸一に次ぐ(と言っても先の二人は遁走)三番目の片岡鶴太郎さんの弟子だ。ボーヤでは水島新太郎や俺、あとはジミー大西さんがほぼ同期。
17才で入門。とはいえそれまで天津甘栗の売り子だったと言っていたから、高校は卒業していなかったのかもしれない。
初めて会った時に「尊敬する芸人は明石家さんまさん。世界一尊敬している人物はアントニオ猪木」と語る変わった(普通は師匠の名をだすだろ)奴で、そのためか自分の師を「鶴ちゃん」と呼んでいた。
当時河田町だったフジテレビ。オレたちひょうきん族収録スタジオの通路では、すれ違う度にボーヤ同士の苦労や悲哀を共有し励ましあっていた。
特に1986年末から年始にかけてお笑いタレントは空前の忙しさ。連日睡眠が取れないほどで、それぞれボーヤはよろよろと廊下を蛇行し、体力の限界と闘いながら歩いていた。そんな、最も苦しかった時代の俺の記憶の片隅にいつも彼はいた。
同じ東京の著名な芸人が師匠で事務所も同じ太田プロ。他の弟子連中より必然的に接点は多かった。そのうち踏み込んだ話をするようになった。
当時彼は本当に友達がおらず。次第に何かと俺につきまとうようになり「大道さんはいつもどこで呑んでるんすか?」としつこく聞いてくるようになった。
この頃俺は自我が強くなっており、軍団とさえ遊びに行かず、自分で独自に交友関係を広めていた時期だった。そんな所に今更芸人を混ぜたくないとも考えた。
どうにか誤魔化して逃げようとしたが、半ば尾行され観念して連れて行ったのが当時、原宿ロッテリア裏にあったロンドン・ドリーミングという店。
当時のA STORE ROBOTより硬派で通好みのロンドンファッションを扱う店で、毎日閉店時間が近づくとアパレル関係者、ミュージシャン、モデルなどが次第に集まりここの“名物アニキ”(店長)に率いられ、飲みやクラブに向かうのだ。
この頃はバブルの余韻がまだ充分残っており、面白い店も多く楽しかった。
当時俺はアパレル業界や音楽関係に知人が多くそんな彼らといつも遊んでいた。
彼も俺も概ね好む服装は近かったので、この店なら合うだろうとも思った。
しかし春一番を紹介するのは本音では嫌だった。彼の20才にして酒癖の悪さを方方から漏れ聞いており「何をしでかすかわからない」と心配だった。
しかしそれは杞憂で、もともと人懐っこくピュアで裏表のない、サービス精神旺盛な性格、酒の飲みっぷりは見事で徹底しているので皆とすぐに打ち解けた。特に年上から可愛がられた。
ちなみに向こうは俺を「大道さん」と呼び(飲んで盛り上がると“キドカラー”と呼び捨てになる)俺は「春花(はるはな)」と呼んでいた。
ただし、彼も芸人。女に手が早い点では時折俺もトラブルに巻き込まれ、何度か間に挟まれ大変な目に遭った。相手に彼氏がいようが関係ないところがあった。
夜中に酔った彼から調子っぱずれな声で「大道さん〜新しい彼女ができたんです〜」と電話が入る。経緯を聞いた上で説教する事も一度や二度ではなかった。
その度に「大道さん、怒ってるんですか」とショックを受けているのが、なんとも言えず
ここもピュアと言えばピュアな彼の一面だったのかもしれない。
このロンドン・ドリーミングは顧客にミュージシャンはもちろん、モデルやスタイリストの出入りも多く、そんな彼らと春一番はすぐに打ち解け、交友関係を広げて行った。
そこには憂歌団の花岡さん、前田日明、後にニューロティカに加入する大澤ナボ等もいた。実は俺の最初の相棒もここのスタッフだった。
大澤とは同い年と言う事もあり気が合ったのか、つい最近まで付き合いがあったようだ。
俺は次第に行かなくなったが、春一番はオールナイト・フジ第二部やドラマの端役とはいえレギュラー番組をボツボツもらえるようになり、衣装を借りる意味でもこの店と付き合いを続けていた。
1987-1989年は殆ど毎日彼と一緒にいた印象だ。だからこの頃のエピソードには事欠かない。とは言え、ここで全部を書くとキリがない。
行動を共にするようになった当時、彼は同棲していたタレントの彼女と別れたばかりで、新居を笹塚に見つけたのだが、彼の当時の月給は10万行かない程度、しかしそのマンションは15万の家賃だった。
驚いて尋ねると「仕事をどんどん増やして払える生活にします!」と言うではないか。しかも貯金はほぼゼロ。1ヶ月で仕事が増えるはずもなし、20歳頃の“若気の至り”であろうが、あれから彼は果たしてどうそれをやりくりしたのか。
また彼はそれまで付き合った人間のせいなのか、妙な芸ばかりを持ち「フクロ酒(想像に任せる)」や全裸になって仰向けになり体を半分に折り、ケツの穴周辺のくぼみにつけダレを流し入れ、もりそばを取ってケツにつけてから食べる芸。
あとはアニマル浜口の奥さんが経営する浅草のちゃんこ屋に出入り禁止だった理由が「水芸(想像に任せる)ばかりやるから」であった。
まあ要するに泥酔した挙句シモ芸ばかりをやっていたのだ。
しかもそれを頼まれてもいないのに、サービス精神でやろうとするのだから困る。
振り返れば既に一種のアルコール依存症だったのかもしれないが、決して暴れたり他人を巻き込んで嫌な事をする訳ではない。ただし一緒に来た仲間も店から同類のように見られる迷惑はあるーーといった調子。
太田プロも一応にせよ仕事を探して来て、春一番がボーヤから独り立ちせんとするこの頃、20代は皆似たものかもしれないが、無闇な自信が身を包み、夢や可能性が無限に感じられる毎日。友達も増えて行き、振り返れば彼が最も楽しかった時期だったのかもしれない。
彼はたけし軍団と違い、師匠の過度な影響力に振り回されることもなく、煩わしい上下関係に悩まされることもなく、実にのびのびやっていた。
逆に徒弟の世界を選んだ意味があった(学べるものがあったのか)かどうかは実に怪しいとは思う。但し当時はNSCも大阪のみでお笑いを志望するなら師事が間違いない時代だった。
この頃は自分も「たけし軍団活動」から卒業した時期で、身辺はバタバタしていた。
むしろそんな「節目」の時期だったからこそ、この頃は記憶に強く残っているのかもしれない。
あれは1989年前後だったと思うが「“ビートたけしのお笑いウルトラクイズ”に出演が決まりました!」と喜んで電話を入れてきたものだ。
彼は以前から殿のファンでもあり「一緒に番組出られないですかね?」と願っていたのだ。
何かこの頃には「いい流れ」に乗ってきた感があった。
ーーしかしそこはやはり春一番。順風満帆で進むハズはない。
もともとアントニオ猪木のモノマネは主軸にするつもりはなく「自分は何でも出来る」と信じきっていた彼も「何か具体的に自信のあるもの」と言えば当時はそれしかなく「営業」や依頼はわかりやすく、メジャーどころではとんねるずの石橋貴明以来、他のタレントがこの時期誰もやってない「穴場芸」であった猪木のモノマネに偏っていった。
これはもっと後の話だが、とある学園祭の仕事で女子学生から花束を受け取り演出があり、プロレスラーのマネでその子を抱きしめる対応をした。
場内は理解し大受けだったが、それを見ていたオールドミスの女教師が「レイプ行為」かのような過剰な騒ぎたてをした。するとそれまでの酒が起因のトラブルもあり、結局太田プロを解雇されてしまう。
そこから他の事務所へ移り、はたまた自分で事務所を作るなど慌ただしくなったが、芸はアントニオ猪木一筋!と言いたいところだが、前出の大澤の元には「ドラムの叩き方を教えて欲しい」と連絡があったともいうので、あるいは芸の幅をつけようとあれこれ模索をしていたのかもしれない。
ーー思えば彼には、今ではすっかり絶滅してしまった「破滅型芸人」の色があった。酒に振り回されているような、近い印象は芸人ではないが中島らもさん。
「酒を語る」ように無頼的ではないのだが、ともかく「酒に身を委ねているのが一番幸せ」に見えた。というか常に没入したがっていた。
但し俺個人も当時酒を飲まない芸人は好きではないし信用が出来なかった。今でも正体が無くなるほど呑む飲みっぷりこそは最大に相手を信用している証と思っている。
昼間に電話を架け、話をしていても、いつの間にか通話口の向こうでグラスに氷が当たる音がするほど酒が好きだった春一番。能く言えばイノセントな存在。
電話を受けた時の返答は決まって「もしもし」ではなく「ちんぽちんぽ」だった。
はじめの頃は正直俺は彼を、邪険にしていた。
特にボーヤを後輩に譲ってからはヒマらしく、毎日連絡が入って「どこか行きませんか」と催促される。こっちは他に友人も彼女もいるので断ると「友達に俺を紹介して下さい」と食い下がる。こちらのプライベートもへったくれもなかった。
ただし自分のプライベートは俺に対しては本当に何でも隠さず話してくれた。
夜は夜で、彼からの電話は決まって酒が入った長電話だった「小沢なつきがどれほど魅力的か」を一方的に延々と1時間以上話された事もあった。こちらがさすがに強引に切ろうとすると「どっか行くんですか、どこですか」「明日は何をやってますか」とやはり切羽詰まったように食い下がる。まるで電話を切られる事に恐怖を感じているのかのようだった。
ーーしかしその電話ももう来る事はない。
結局俺が海外を行き来する生活になるに任せ、彼とはそのまま疎遠になり、やがて時折用事があるときだけ連絡を取り合う関係になった。
実際、最後に会ったのは11年前だった。そして友達が増えるに従い長電話の被害者も分散された様子だった。
ーー俺によく云っていた言葉は「鶴ちゃん(片岡鶴太郎)が死んでも泣かないが猪木さんが死んだら一緒に死ぬ」だった。
そんな彼は結局、猪木さんより先に亡くなった。
訃報に際してアントニオ猪木さんからもコメントが寄せられている
先ほど共通の知人と話していてそいつはこう言った。
「好きな酒を最後まで飲んで、猪木さんに最後の言葉までもらって、きっと幸せに死ねたんじゃないか」と。
ーーそれに関して俺には何とも言えないが、あの当時の記憶を共有した人間が1人いなくなる事は堪らなく寂しい。
人は喪(うしな)ってはじめてその人物がどれほど自分の中を占めていたかを知るのかもしれない。
今もヤツの声はしっかりと耳朶に残り、いつだって思い出せる。
春花。ともかく今はゆっくり休んでくれ。そしてまたどこかで会いたいなーー
R.I.P Naoki Haruhana 2014.7.3
亀頭白ノ助がいた景色
殿がセピア以降で増え始めたメンバーを集め“浅草キッドブラザース”と名付け、強制的に浅草行きを命じた中に亀頭白ノ助という男がいた。
当時のメモを読むと「亀頭白ノ助」「エイヘイサイク」「ソークメナオ」ともなっており「どれか選べ」といった状況で殿自身も誰に何と名づけたかも覚えてないーーそんな有り様だった。
彼は太田プロそばの中華屋「小次郎」でバイトをしながら、弟子入りの機会をうかがっていたのだった。
痩せてヒョロヒョロ。殿の足にすがりつき半分泣きながら、弟子入志願を訴えた姿を今も覚えている。
結局亀頭白ノ助は浅草には行かず、自分なりに活動を模索。彼は田舎の人間で人懐っこく、俺には近況報告を都度してくれていたのだった。
新人コント大会関連の友人も出来、渋谷道頓堀劇場で幕間のコントをやっている奴らと特に仲良くなっていた。そこで当時専属でコントをやっていた杉兵助師匠の存在を知る。
杉兵助ーー浅草生まれの浅草育ち。深見師匠より7つ年上で、浅草が時代から取り残され、とうの昔にTVの時代になってもコント(軽演劇)を教えていた。コント赤信号の師とも言われている。
亀頭は生のコントを観て相当衝撃があったらしく「大道さん俺、杉兵助師匠の所に行きます。凄いんですよ感動しました!」と言った調子で、その魅力を興奮しながら語るのだった。
「そうか、よかったな。じゃあ殿に挨拶するだろ?」
「それを頼みに来たんです」
そんなやり取りをする俺も彼の行動に心は揺れていた。
彼の行動はまことに正しいと感じていたからだ。
TV局の楽屋、休憩時間の合間に殿との場を作った。亀頭は勢い込んで杉兵助師匠の「魅力」と「なぜそこに行くのか」を語りはじめた。
悪気はない。素朴な彼は殿を眼前に、ザックリ言えば「あなたではなく、もっといい師匠がいたのでそちらに行きます」と語っている訳で、殿の心中はいかばかりかと臨席した俺は思った。
案の定、直後収録の番組では「亀頭白ノ助は歯のない杉兵助師匠のところへ行きました!」と全く流れに無関係で唐突にそんなエピソードを挿し入れていたーーやはり多少なりともショックだったのだろう。
ーー2、3年ほど経ち、俺も殿の許を離れ環境も落ち着いた頃、不意に彼の事を思い出し、渋谷に行ったついでに道頓堀劇場を訪ねた。同じような立場になったし、一緒にメシでも食いたいと思っていたのだ。
しかし対応に出た女性スタッフ(芸人志望だろう)に彼の名を告げたが、覚えがなかった。
「ここは人の出入りが激しいので、1年も経つと入れ替わっちゃうんですよ」
そう申し訳なさそうに答えた。
ーー現在芸名にしても実名にしても彼の噂を聞く事はない。もしかすると他の軍団は知っているのかもしれないが、少なくとも俺は知らない。
何れにせよ自分で考え、選択して行動を踏まえた彼に後悔はないのではと信じたい。
殿は自主的な人間を好む。
頼りにし傍に寄ってくる人間を拒みはしないが同時に「こいつらしょうがねえなあ」とも思って面倒をみている。但し信用はしない。談志師匠の言葉なら「人間の業」を引き受ける覚悟がある。
例え面倒をみてくれるからと言って、弟子には弟子の「本分」がある。
師匠の許を離れ、自分の名前だけで他流試合を重ね力を試さねばならない。ダメならそれまでだ。落語のようなセーフティネットはないのだ。
洋七師匠の言葉を借りれば
「たけしが言うとったぞ、自分の考えを持ってるのは大道だけやって」
照れる話だが、これは俺が特別なのではなく、他のメンバーがいかに節操なく「ビートたけし頼み」で生きているかの裏返しと思う。常に上司の機嫌をとって給金をもらうーー俺は「それじゃあサラリーマンと同じだろうよ」って思う。
ところで、なぜ亀頭の事を急に思い出したのか思考を手繰ったが、渋谷OS劇場が閉店しカフェにリノベした報道を見たからだった。
ビートたけしの“ボーヤ”[Phase1]
結局芸人の道を歩まず、一般人としての生き方を選んだ自分にとって、この時代の出来事で何一つ誇れるものはない。
しかし唯一他の軍団にはない勲章はある。それは当時の太田プロ、鬼の菊池マネージャーからの「ボーヤ卒業」の一言だ。
自分は現在も、過去の経歴を説明せざるを得ない場合「たけし軍団にいた」とは言わず「ビートたけしのボーヤでした」と言う。
これは菊池マネージャーに「お前らは“たけし軍団”じゃない。ボーヤだ」と常に言われていたゆえだ。
『たけし軍団』は10名の“タレント”の事を言い、それ以降のメンバーは“ボーヤ”だったり“セピア”と呼ばれる。つまりタレントではないという意味だ。
だが、一般の視聴者はテレビに出てさえすれば“タレント”と思い込む。
以前にも書いたが、殿はテレビに出しながら稽古をつけるつもりなので、ハッキリ言えば誰でも構わず出していた。
テレビに出演し「ギャラ」が発生していたのは先輩10人だけで、あとは定期的に殿から「小遣い」をもらう。(局からは当然ギャラは出ていた筈だが...)
ただしそれだけでも超御の字。一般的に芸人の弟子は自分でアルバイトをするのが普通だ。なにせ「勝手に来たあんちゃん」なのだから。
当時、自分はニッポン放送の「出待ち」から、草野球の球拾いをし、顔を殿に覚えられ、ラジオでも少々名前が出て、スポーツ大将、風雲たけし城などにレギュラー出演をしていても、気は晴れなかった。
「お手軽にテレビに出たいのではなく、“自分で演るための”お笑いの修行に来たのだ」という意識だったので、ビートたけしの名の下にテレビに出る事は、全く望んでいなかった。ハッキリ言って嫌だったし居心地も悪かった。何かしっかりとした実になる「修行」をしたいーー
セピアは軍団を見ていたので「ああいうふうにはなりたくない」といつも言っていた。なぜなら「ビートたけしのお陰で存在している」然とした佇まいが格好悪かった。
現在も浅草キッドも含めたたけし軍団は一般のお笑いタレントの中でもどこか「一人前」の扱いをされていない。その証拠に番組では彼ら自身の事ではなくビートたけしに絡めたエピソードを常に求められる。
彼らから“ビートたけしの背景”を取り去って、まともにタレントとして評価される者がいるだろうか。
他の芸人も「お前らと違って俺達は自力で出てきたんだ」と意地があり、認めない姿勢と抵抗が少なからずある。そして軍団はそれを感じてもいる。
ーー当時自分にとって、信頼できる相談相手はラッシャー板前だけだった。齢も1才違いで、俺が更新するまでボーヤの最長任期を務めており、「軍団の末っ子」として苦労をしていた。俺にとっては何でも話せる唯一の人ーー本当の意味で「兄さん」だった。
細かく言えばボーヤそのもので苦労したと言うより、ただでさえ殿のボーヤで目いっぱいなところへ、加えて調子に乗って分もわきまえない軍団の兄さん達があれこれ命じてくる。これではたまったものではない。
要するにボーヤをまともに(ホンの一ヶ月程度なら他にもいた)務めたのはそのまんま東と松尾だけで、次にラッシャー板前になるが、その苦労を大半がわかっていなかった。
前述の悩みを打ち明けると「ボーヤしかない。ともかくキツイけど一番勉強になる」と、即座に勧めてくれた。この時点ではラッシャー板前からグレート義太夫にボーヤが交代し1ヶ月ほど経っていた。
1985年の春からは元気の出るテレビ、スポーツ大将、風雲たけし城、のゴールデンタイムの番組と、純粋なコント番組のOH!たけしが新たにスタートした。それまでの世界まるごとHOWマッチ、おれたちひょうきん族、スーパージョッキーに加えた「バラエティの黄金期」を迎えようとしていた。
そして殿からの指名で水島新太郎に切り替わったが「1ヶ月」の期限付きだった。セピアの人数も増えており「短期間交代制」の方針が出された。
丁度この頃、談かんから「大道もぷらぷらしてるなら勉強しに来い」と声を掛けられOH!たけしに見学しに行くようになり、そのうちに殿からチョイ役で使われる事もあった。
ーーこの時期にちょっとしたエピソードがある。
水島新太郎が家の事情でボーヤを1日休まざるをえない状況があり、菊池さん指名の交代で俺がその日だけ務めた。番組は元気の出るテレビのロケだった。
殿と二人で過ごす時間は初体験。すさまじい緊張で臨んだが、何とかつつがなく無事に一日を終えた。
マンションに殿を送り自室に戻ると菊池さんから連絡が入った。当時は全て連絡は固定電話だ。
「殿が“鍵がない”と言ってるよー。ちゃんと渡したのー」と抑揚のない声。菊池さんは怒鳴る時と、意図的に怒りを殺し抑揚のない声の時がある。これが恐い。
ウエストバッグを探ると殿から預かったキーケースが出てきた。顔から血の気が引いた。鍵がない殿は途方に暮れて太田プロまで歩いて来たらしい。
慌てて事務所へ走った。走りながらあれこれ逡巡した。
携帯電話のない時代「あれから殿はマンションのドアが開かず歩いて事務所までわざわざ歩いたんだ..」そう考えると堪らない。なんとも申し訳が立たない。
当時のマンションから事務所までは徒歩で10分とかからなかったとは言え、天下のビートたけしが独り四谷を歩く姿を思い浮かべ胸を痛めた。大失態だ。
そして頭の一角に「残念だがこれはもう馘首(クビ)だな。俺あたりの人間にしては余りに大きいミスだ...」と肚をくくった。
事務所に着き、顔を見る事も出来ずキーケースを差し出し全身全霊でお詫びをした。それしかなかった。
「今までお世話になりました」の言葉を反芻しつつ殿の顔を見上げた。
その刹那、殿はニコッと笑い「そうか、探せば見つかるもんだろ」と、さも“なんでもないこと”と云った風で鍵をポケットに入れた。
想像もしなかったリアクションーーその瞬間「ああ、俺はこの人に一生頭が上がらない」と強く思った。
「包容力」などと軽い言葉も使いたくない。
本当の意味で、はじめてビートたけしという「人物」に触れた瞬間だった。そしてラッシャー板前のアドバイス通り「俺はこの人の、仕事以外の身の回りの事一切に尽くしたい」と改めて決意したのだった。
この日を境にタレントのビートたけしから「俺の人生の師」と捉え方が変わった。そんな出来事だった。
特殊な「たけし軍団」の構成
今から思えば不思議だった。
たけし軍団(オリジナル10人)は、バンドがベースの「ザ・ドリフターズ」や「ずうとるび」でもないし、事務所が所属タレントをかき集めて作ったコント・グループでもない。
何が不思議かと言えば、プロの芸人と落語家と素人”が混在していた事だった。
当初は東、松尾(以降敬称略)から徐々にメンバーが増えた事から「たけし軍団」と括りの名前を付けた事によるいわば最初は「俗称」だった。
草野球の助っ人に来た芸人ーー既に旬の過ぎたようなその彼らに、ビートたけしが声を掛け、また立川談志一門からも師匠に頼み込んで弟子筋であるたけしさんに預けられたのが談かん(ダンカン)と言った具合で「結果的に」過去に例を見ない無茶な構成となった。
しかし、ニッポン放送の出待ち直訴で入門(正式には一門は存在しないので“入門”ではないが)した“素人”とはいえ、『弟子志願』を踏まえて入門したメンバー(東、松尾、柳、ラッシャーの4名)は当初「修行後自力で芸人になる」のが基本線だったはずで、そのために東は漫才を組み、松尾は浅草に修行へ行くなどの模索を続けていた。
こんな調子でメンバーが増えた事から「たけし軍団はビートたけしの弟子」と簡単には言えない微妙さもあった。
大森は東に誘われコンビを組んだがぱっとせず、軍団に吸収されただけで、弟子志願をした事実はないし弟子の自覚もない。
タカ、枝豆もコントコンビのまま草野球の助っ人を経て加わり、談かん(ダンカン)は談志師匠に頼み込んで移籍して来た。義太夫は当初弟子入り志願者だったが、はじめはバンドのメンバーからの加入であり特殊だが、この何れも「軍団に加わった」意識はあっても「弟子志願者」ではない。
後に『たけし軍団=ビートたけしの弟子』との一般世間の安直な認識のまま今日までずるずると来てしまった。但しビートたけしの言葉を借りて言えば、全員ボーヤであって弟子は1人もいない。
弟子志願を経て軍団に加わったメンバーには「俺の師匠はビートたけしだ」との意識はハッキリとある。そして早いところ軍団から卒業し独り立ちをしなければと考える。
しかし他の「中途採用組」は「たけし軍団でタレントとして食べて行ければいい」と考えていた様子だった。
これがなぜ一応にせよまとまっていたかと言えば「ビートたけしと言う名の重石」があったからで、いわばユーゴスラビアのチトーがビートたけしで、この人がいなくなればユーゴよろしく、即時紛争が発生し、空中分解した事だろう。
元々我の強い芸人、芸人志望者がまとまるはずもなく、そもそも先にいたメンバーからすると、途中から加わり延べのキャリアが長いからと、急に先輩風を吹かされて心中穏やかなはずもない。
そしてそれは折に触れ様々な蹉跌を生んだ。
嗚呼「ビートたけし一門」
「ビートたけし一門」とは言うが、本人の言葉で言えば
「ウチは皆転がり込みで、一門なんてものはない」となり、実際「師匠」とは呼ばせず、本人からは「殿」と呼ぶように当時は言い渡されていた。
草野球で助っ人に来た事からの縁や落語界からの編入。そして直訴組。
直訴組は当初、自力で軍団から抜け出しピン芸人をと志向していた。しかし他の「中途採用組」は「たけし軍団」と言うタレント活動と受け止めていたし、そこから抜け出ようとも考えていなかった。
芸人で勝負を賭ける時期は一般的には精々1度きりで、それは既に終えている。残りのキャリアを、日本で知名度抜群なビートたけしの傍で活躍出来るならこれ以上の事はない。
ちなみにとんねるずは、ツーツーレロレロやカージナルス同様「お笑いスター誕生」出身で、軍団の草野球に助っ人で出入りしていた。しかし当時の番組プロデューサー、赤尾氏を怒らせ、日本テレビからは締め出しを喰らい、「干されている」状況で先は見えていなかった。
当然殿は軍団に誘ったが、彼らは「もう少し自分達でやってみます」と断りを入れた。その後フジテレビの「オールナイト・フジ」でブレイクする。人生には何度も分岐点がある。長い目で見なければわからないが、全てに意味はある。
とんねるずの場合も新宿御苑の『KON』と言うショーパブに出入りしていた時に常連のフジテレビスタッフに見いだされての『ブレイク』だった。
とは言ってもカージナルスがとんねるずになるはずもないしその逆もない。ひとつ言えることは「安直な判断に未来はない」と言う事だろう。とんねるずはそれを示したように思える。
そこを見極めたかのように当時のセピア若手は軍団よりとんねるずを尊敬していた。
方や、直訴組は単純に素人だ。突然無闇にテレビに出されても、気の利いた事など出来ないーーというよりも、だからこそ勉強目的で弟子入りを志願して来たのだ。
どう勉強するのかーー実はここがたけし一門最大の問題かつ特殊な所で、まず師匠は日本で最も多忙なタレントである。故に軍団が芸事を教え授かる場面がない。そこで絡みのある番組で、それを同時に行おうとしていた。
いや、正確には「軍団に芸を教えよう」とは考えていなかったと思う、それをそのように本人が言ったとしても私は「それは後付けでしょう」とハッキリ目の前で言える。
殿は単純に“ビートたけしの番組”としてのクオリティに真剣だったに過ぎない。だから容赦もなかった。何かを教えようとしているよりも、余計な事をしでかさないように、リスク管理していた印象だった。
軍団のテレビ出演はすなわちビートたけしとの共演であり、いじられ役でもある。これを受け容れるのみだった。
当然、軍団のあらゆるリアクションは殿への“媚び”となり、それが体に染みついてゆき個性が死んで行く。あくまで“ビートたけし好み”のタレントに狎(な)れて行く。
自分は「このままではまずいな」とこの事態を深刻に受け止めていた。
反対の例で言えば『ダチョウ倶楽部』はそれまでは“やがて自然消滅するであろうタレント”に含まれていたような存在だったが『お笑いウルトラクイズ』でブレイクした。
評価がそれまで低かったが、じっくり独自の路線を歩んでいた“個性の強さ”が『お笑いウルトラクイズ』でビートたけしと絡む事で引き出された実例であり好例だ。
当時軍団は自らの地位がビートたけしによってもたらされている“現実”を頭の片隅で理解はしていても、TVの扱いやギャラから勘違いが生まれていたように私には見えた。
人間は弱い。それは結局30年後の現在まで続いているのだから。
当時口々に兄さん達は「独立」「独立」と言っていたが、次第に「さんざん世話になったのに離れるなど恩を仇で返す事になる」などと言い出し(飛び出して成功するなら師匠へ恩を返す事になるだろう!?)自己の立場を次第におかしな理屈で肯定し出した。
その実態を眺めていた自分は「修行を終えたらここから出なければ自分がダメになる」と決心した。
1984年12月於:有楽町ニッポン放送
去年までは体育の教師になるはずの自分が、その時ニッポン放送の玄関前に立っていた。
正確には道路を隔てた反対側の歩道からその光景を眺めていた。
深夜3時を回ろうとするこの時間に、おそらくはまだ10代と思しき50人ほどの女子達が電車は始発覚悟で「出待ち」をしていた。
姦しいそれらのファンへ埋没するかのように、息を殺し思い詰めた表情で立ちすくむ数人、男子の姿が視界に入る。ーー弟子志願者である。
3時の放送が終了するや、玄関口からたけし軍団達がパラパラ姿を現し、そのタイミングに合わせ白いセドリックが玄関前に停車する。
軍団は花道を作り、スムーズにビートたけしが車へ乗り込めるように段取る。
通常ファンは、その「軍団柵」ごしに嬌声とともにプレゼントを渡すなりビートたけしにコミュニケーションを取ろうとする。
「もしも自分に入門の使命があるなら必ず一発で叶うはず」
ーー若年固有の無根拠な確信を胸に自分はその「軍団柵」を超え、車の後部ドアに向かわんとするビートたけしの真正面に立ちはだかった。
何と申し出たかは失念している。「弟子にして下さい」も図々しい。おそらくは「お傍で勉強をさせて戴けませんか」程度の、自分なりに最大限神経を使った言葉だったはずだ。
そもそも、弟子志願をするロケーションも考え抜き「弟子志願自体が図々しくはあるが、定番になっている場所の方が迷惑度は少ないであろう」との結論を出していた。
目が合い、少々困った顔をするとやおら談かんを呼ぶ。談かんからは「ボクのアパートに来て下さい」と言われた。
ーーともかくその日から、かの、談かんのアパート「ゆたか荘」の住人に加わった。ただしこの頃は極めて不安な毎日だった。
そもそも軍団でさえ「一門」の形もなく皆「転がり込み」のまま『たけし軍団』に形成されただけで、自分も紛れ込めたのかさえも分からない。
初日に「まあ、草野球の球拾いでもしていれば、顔も覚えられるさ」という談かんの言葉を半分信じていただけだった。(今思えば何と優しい事か。その後志願者を問答無用で断り続けた自分とは違う!)
当時はバブル期。ゆたか荘も立ち退きを迫られ、まもなく引っ越しせざるを得ない状況。
「アパートの場所を知られてもどうせ引っ越すから構わない」との考えからか、ファンに住所を公開し堂々と談かんはファンに移転費用を募っていた。
そこで、寄付後のファンを駅まで送るのが自分の役回りだった。
...その頃高校生だったファンの皆さんも現在40才代な訳で、皆さんお元気だろうか。