希土色の刻

KidocolorOhmichi's Reminiscences

2016/1/10デヴィッド・ボウイ死去〜個人的な想いを寄せて〜

amass.jp/11

誰しも様々な縁やキッカケを重ねながら人生を歩んでいる。

自分もそれは同様で単純ではなかった。

小学校時代からロックに傾倒した自分は“Ziggy & Iggy”の頃からデヴィッド・ボウイが好きだった。

そしてビートたけしへの念いを胸に上京した1984年には下記の要素が密接に絡み合っていた。

  1. 「東京ロッカーズ」で中心的存在、MOMOYO率いるLIZARDの「浅草六区(バビロン・ロッカー)」ビートたけしの「浅草」との符号。
  2. 当初音楽の道を志していた同級生の事故死(彼が音楽仲間では一番親しかった)
  3. デヴィッド・ボウイのアルバム「Diamond Dogs」から9曲目“1984”の存在。

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3.のアルバム「Diamond Dogs」はジョージ・オーウェルの小説『1984』にインスパイアされている。

読んだ方もいると思うが、要は社会主義国家の究極「管理社会」への警鐘である。

そんな自分の政治的意識の下敷きには、先に挙げたMOMOYOさんの強い影響がある。そもそもブリティッシュロックも政治的なメッセージが強い。

パンクムーブメントもゴリゴリに政治的なメッセージに溢れている。

MOMOYOさんはストラングラーズのJJバーネルに見いだされたが、MOMOYOさん自身も水俣病を訴えた「SA・KA・NA」というミニアルバムを自主制作(メジャーリリースは金儲けに繋がるため)でリリースするなど、社会問題を楽曲に込めるアプローチを続けていた。

このLIZARDを俺に紹介してくれたのが事故死した2.の友人だった。

これらの要素が「必然」として絡み合った上で、最後に「管理社会」へ警鐘を鳴らすボウイの“1984”に自分の中の「何か」がキリキリと反応し行動を起こさせた気がする。


David Bowie - 1984

また数奇な点としてボウイは、1983年に『戦場のメリークリスマス』でビートたけしと共演を果たしているが、この2人の誕生日は1947年1月8日と1947年1月18日と、10日違いの同年齢だったのだ。

しかしそれを2人が認知しているかは分からない。

ボウイは結局自分の69回目の誕生日まで頑張ったと言うことだろうか。

ーーボウイはその耽美的印象に反し、以外と政治的作品の関わりがある。

上記作品の他に1986年の冷戦下、核戦争の脅威を訴えた英作家レイモンド・ブリッグズ作マンガの映画化作品『風が吹くとき』の主題歌も自ら参加している。


David Bowie When the wind blows

冷戦は終結したが、核の脅威は今日まで続いており、この曲に込められたメッセージは今もなお説得力を湛えている。

ーー69才という年齢も言われてみれば、自分の齢も51となり、おどろくものではないが、過去にまばゆい記憶を与えてくれたヒーローはどこか永遠に死なないものと錯覚している部分がある。

それだけに「あ、ボウイも死ぬんだ」と今回の訃報に際し間抜けな反応をしてしまった。

言うまでもなく、彼の影響は日本でも強く、BOØWYもその名の通り、デビッド・ボウイに影響されたバンドで、そのフォロワーがグレイであり、その他「ビジュアル系」と一括りされるアーチストはボウイに連なる存在と言えるだろう。

さて、来週はたけしさんの69回の誕生日だね。

 

 

たけし軍団発“幻”のアイドル“トリオ”

1985年の年明け早々、殿へ水島新司先生から相談があった。

「ウチの長男(新太郎)が今年高校卒業で、役者の勉強をしたいと言っている。たけしさん、どこかいいところ(劇団や養成所)知らないですか」というものだった。

それに対し「だったら、劇団じゃないですが、よかったらウチで預かりますよ」と返した。

そんな経緯で新太郎は軍団に加わる事になった。

彼は“左腕の剛速球投手”の夢を水島先生に託され、幼少時から左利きで育てられた。

しかし高校入学までは順調だったかに見えたが、子細はさておき、既に彼は野球を辞めてしまっていた。

それでも堀越という校風故か彼は芸能界を志向していた。

状況は1984年末から自分、大阪百万円と、その前から宙ぶらりんな存在であった吉武、出戻りの古田とまとまった人数が揃いはじめていた頃。

まもなく談かんを通じて

「新太郎が軍団に加わる事になった。しかし言っておくがオマエらとは身分が違うからな」

と言い渡された。

このように“一言気に障ることを言う”のが彼のクセだ。

預かり先は西新宿の『ゆたか荘』から中野坂上『小林荘』に移転したばかりの談かん宅。その時点で次の住まいを決めあぐねているユーレイと大阪百万円。そして俺がいた。

この3人は『ゆたか荘』からの居候。この時代は『小林荘』の最盛期だった。

(のちに部屋を決めたユーレイが先に出、春には殿の指示で、大阪、大道は東宅へ移転、新太郎だけが小林荘に残った)

5人が同居していた『小林荘』はさながら合宿所で、今振り返ってもこの頃が一番楽しかった。我々も「この先はなんとかなるだろう」と若さ故の無根拠な自信もあった。

談かんは木造のアパートが好きで、この『小林荘』も古い建物だった。ほどなくファンにもバレるのだが、そんな「ユルさ」も半ば楽しんでいるところがあった。

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さて、この時期は振り返ると『ビートたけしバラエティ黄金期』のはじまりで、スケジュールは殺人的に過密。

江戸っ子の気風で威勢のいいことを水島先生へ言ったものの、現実的には殿本人も新太郎の事を考える暇(いとま)などない。

そのため一旦太田プロに託し、方向性として“お笑いではなく役者へ繋がる道筋”へと模索に入った。

この頃はとんねるずがフジテレビの『オールナイトフジ』を根城にブレイクしはじめた頃で、業界では彼らの“二匹目のドジョウ”狙いで“ちょっと口が達者で見映えのするコンビ”を大手プロダクションが急造し推す動きが流行った。

中山秀征がいた『ABブラザース』などもそうだった。

そんな業界のトレンドはいかにも軽く、完全なる“ビジネス”視点でありお笑いを“甘く見ている”としか思えないもの。

当然殿は「あんな風にはさせない」と考えていたようだった。

しかし検討の末結局は「マスクもいいし、とりあえずアイドルをやらせよう」となった。

今思えば当時の殿はチャレンジ精神旺盛ーーといえば聞こえがいいが「オレがやればなんでも成功する」と信じ切っており、確かに自己の守備範囲ではそこから“自分の時代”を築き、大成功するわけだが、俺個人の感覚としても『浅草芸人』に“アイドルのプロデュース”はさすがに埒外な感は否めなかった。

プランニングは春以降も続き、まず草野球で新太郎が助っ人でいつも声をかけていた堀越の同期(当時東芝府中野球部)長嶋に白羽の矢が立った。

彼は特別にマスクが良いわけでもない。今思えば“安直”と思う。

殿は「野球をやらせると性格が分かる」と日頃から言っていたから、あるいは長嶋の人物を草野球で接する中でそれなりに掴んでいたのかもしれない。

「おい。あの長嶋って奴今度呼んでこい」

と呼びつけ

「新太郎とアイドルをやらないか」

ともちかけたのだった。

それと同時にたけし軍団以外に増えてしまった“セピア”の事もあれこれ日常から考えていたようで、顔が“素”でお笑いにしては中途半端、では“男前”かと言えばそうでもなく「多分お笑いは無理だろう」と思われていた(と思う)俺に「トリオの3人目のメンバーならギリギリいいだろ」と考えたかどうかは定かではないが、日テレの楽屋で声を掛けてきた。

「大道。新太郎と長嶋と一緒にアイドルやれ。明日から一緒に行動しろ」と命令が下った。

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 当時は“殿の言葉は絶対”で、俺もボーヤをやる以前で、普段話をする機会もなかった。だから緊張を伴って「ハイッ!」と元気よく思考することなく返事をした。するしかなかった。

その日から3人は仮称で『おぼっちゃま隊』と呼ばれた。この当時『トリオ』と言えば『少年隊』だった事から自然とそうなった。

ーーさっそく翌日から青山のビクタースタジオに通いボイストレーニングに励んだ。

だが3日も経った頃、徐々に耐えられなくなった。

勧められるまま美容室で“それ風”な髪型にしてみたり、太田プロ事務所に呼ばれ、デビュー用コスチュームの試作品の採寸とチェックをしたり、それなりに準備は進んでいた。

ーー俺はお笑いの勉強をしに入門したのであって“なんでも良いからTVに出たい人間”とは違う。“ビートたけしのそばにいたい”わけでも、当然“たけし軍団に入りたい”わけでもない。

ハナから「自分で漫才を組んでそのうちここを出よう」と計画を決めていたのだ。それだから今回の流れに対する違和感が凄まじかった。

 

そんなある日、ファンレターを取りに太田プロへ行った際、居合わせた磯野勉社長へ不安な胸の内を吐露した。

社長は普段から何かと俺に気遣ってくれる方で、自分も慕っていた。なんでも話せる空気をいつもつくってくれる人だ。

穏やかな笑みを浮かべながら

「そうか大道君は不安か」

と頷きつつ話を聞いてくれた。そこへ副社長が会話に加わり

「大道。でもお笑いは本当に難しいよ」

と厳しい口調で言った。

太田プロは1960年前半に設立され、ホリプロナベプロら大手より数年遅れたものの、落語、伝統芸能以外の演芸系事務所としては20年の歴史がある。そこからの経験なのだろう。その言葉には深さと重みがあった。

意を汲めば「どうせお笑いでは成功など望めない。せっかく機会をもらったのなら、やるだけやってみなさい」と聞こえた。

これはのちに猿岩石をお笑いよりアイドルの方向性で売った方針と一貫している。

とはいえ、それからも、今から思えば二週間程度の事だったが、新太郎と長嶋はそれなりに心を決めてレッスンに励んでいた傍で、いよいよ迷いながら関わる俺は心苦しくなった。そして限界に達した。

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こうなると相談する相手はラッシャー板前しかいない。

いまでも俺にとって本当の意味で“兄さん”と呼べる存在。幸い当時は同じ『四谷サンハイツ』の3Fと2Fの関係で、じっさい一番身近な存在でもあった。

物事を常に真剣に考えており、軍団では“まれ”な人物だ。しかも男気がある。

 

「そうか。実は俺も心配していたんだ。大道はどう考えてるんだろうってね」

2Fの部屋で、相談に訪れた俺の話を聞き、咥えていたタバコを灰皿でもみ消しながら、しみじみと言った。

それはつまり、俺が加わる事にやはり傍からみても“無理”を感じていたのだろう。

そして、

「大道。だったら、殿にそれを直接言ったほうがいいぞ」

と言われた。

俺は少なからず驚いた。ボーヤでもなかった当時、殿にそんなことを直接言えるなどと考えた事もなかった。

この当時は完全に俺にとってありふれた表現ながら『雲の上の人』

普通に話が出来る対象とも考えていなかった。今回の事も『絶対命令』と思い込んでいた。

具体的に「どうしたら良いか」を問うと、当たり前のように「電話を入れた上で訪ねろ」といい、なおも戸惑う俺に“安心しろ”とばかりに相好を崩しながら

「殿はそういう話はちゃんと聞いてくれる方だよ」

とも付け加えた。

オフの日、在宅の時間帯に、意を決したものの、まだ迷いの残る指で電話を架ける。

「そうか、来いよ」

とあっけない返事。

急いで腰を上げ、小雨が降る中、『パレ・エテルネル』を訪ね、2人きりで向き合う初めての体験に、経験したことのない緊張が全身を包む。

ノックをし、リビングに入る。部屋には当時好んでいた男性用香水“アラミス”の香りがかすかに漂っている。そして顔を上げると目の前にはあの『ビートたけし』がいる。

本当に当時はまだそんな『距離感』だった。

部屋に入ると、床にあぐらをかいて座っていた。

神経質そうに、TV同様に目を瞬き首をカクカクさせつつ、時折りまぶしそうに目を細めタバコをくゆらせている。そしてぶっきらぼうに

「話ってなんだい」

と言葉を投げた。

促されるまま、ここ数日の心情と自身の考えを全て話した。

ひと呼吸間があいた。

新たなタバコを一本手に取り、逆さにし、とんとんとタバコの箱を叩き、火を点け、ひとふかし、煙をため息のように吐いてから口を開いた。

「誰かに相談したか?」

恐らく俺あたりの人間が直接電話して来る流れに何か察するものがあったのだろう。

「ラッシャーさんにしました」

「で、ラッシャーはなんて言った?」

「ハイ、殿は自分の考えを話せばしっかり聞いてくれる方だと」

「ふ、何を言ってやがる」

そういって「あいつ。生意気に」とでも言いたげに口元をほころばせた表情には、ラッシャー板前と殿との軽くない信頼関係が透けて見えた。

そしてやや思案があり、口を開いた。

「そうか。でもあれだな、オマエが自分から“抜けたい”と言ったと知ったら、あとの2人は気分が悪いだろう。オマエらの人間関係もあるだろうから、おれがうまくそこは言っとくからな」

ーー拍子抜けした。

“お前は何様だ”

“俺に言われた事が出来ないのか”

“どういう勘違いをしてるんだ?”

などと、厳しい言葉があるかと思っていたし、あるいは

“そうか、じゃあ今日で(俺の所は)やめていいぞ”

などと言われる覚悟もしていた。

ラッシャー板前から、ああは言われていたものの、ビートたけしという人物はそんな、アッサリと冷酷な言葉で手を下しかねない、残酷な気配も同時に漂わせていた。こういった面は傍にいなければなかなか感じられるものではないが。

だが、予期していた“厳しい言葉”も、結局それは“相手にしてくれている”次元であって、当時の自分などは切った方が早い程度の存在だったはずだ。

ともあれ、場を辞し翌日、TV局の楽屋で軍団全員が揃う前で「大道がおぼっちゃま隊から外れる」旨、殿から発表があった。

そこでは

「大道は性格が暗いからアイドルに向かない」

などと、あくまで「殿の判断で外した」事を強調していた。

自分はその配慮にひたすら申し訳のない心持ちだった。

その後、殿はユーレイを代わりに入れてみるなど試行錯誤をしたが、結局正式名称を『おぼっちゃま』とし、デュオの形でデビューさせる事になった。

彼らはシングル4枚までリリースをしたが、事務所がオフィス北野に移行する中で、活動は半ば自然消滅となった。

ともあれ、一時期は『トリオ』のセンで進められていたのだったが、今考えても、どのみち、あらゆる面から、あり得なかったと思う。

だが、自分にとっては二人きりで話をした最初の機会と、後にボーヤ志願へ繋がる『ビートたけしの体温』を直接感じる事が出来た、忘れ得ぬ場面だったのだ。 

 

 

 

 

 

 

2016年12月9日『フライデー事件』30周年

2015年となり、来年の12月9日でフライデー事件から30周年を迎える。

10周年にあたる1996年は日本におらず、そのせいもあってか完全に忘却し、20周年である2006年もやはり思い出す事さえなかった。

今回に限ってなぜか意識したのだった。

 

改めて思ったのは、この事件をその発端から最後まで通して観ていた当事者は俺だけと言うこと。

発端からは菊池さんが関わっていたが、講談社で乱闘の場面にはいない。

殿自身は強引な取材を行った本人が以前面倒をみた人物と当初知る由もなかった。

たけし軍団も当日呼び出された時点ではそれ以前の経緯を全く知らない。

だから当日呼び出され、怒りから早口になった殿の説明を聞いても、要領を得ない表情のまま現地に向かったのだった。

ーー季節は冬。年末で年始の番組も含めた「撮り溜め」の時期で滅法忙しかった。

菊池さんから改めて「こんな事が起こっている」などと説明こそなかったが、常に太田プロと菊地さんのやりとりを耳にしている俺は、リアルタイムで状況を把握していたし「これはただでは済まないな」とも感じていた。

だから帰路の車中で「大道。軍団を四谷サンハイツに集めろ」と指示される流れで、次元は違うかもしれないが、怒りは共有していた。

ーーしかし何も恐れていなかった。

当時の自分は若さ故の無謀もあったし、先輩であった軍団とのささくれ立った関係と、常に強迫観念に駆られたような環境から次第に追い詰められ、一種「命知らず」の状態になっていた。

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ともあれ、お子さんも今では大人になり、そもそもその「発端と事情」も繊細なものがあるから「今さら掘り起こしてくれるな」と殿は思っているかも知れない。

しかしどうにも「当事者」としての責任を共有されている感覚もある。

ともかく、いずれ時が来たらまとめてみたいと思う。

放っておけば東をはじめ、誰かが適当に(きっと自分の都合を込めて)話を捏造し始めるだろうから。

まあ、東は乱闘に加わらず、たけしさんと軍団を「見殺し状態」にし眺めていたのだから、乱闘の光景は誰よりも全体を観ていただろうけども。

ーーもう一度書くが他の軍団は殴り込みの当日からしか関わっていない。

大塚署の話も不正確な話が美談めいて広まっているが、あれも誤りだ。殿といられた場面はホンの少しだったのだから。

ホント、人間は自己中心に、そしていい加減に変わってしまうものだとつくづく思う。

秋山見学者の記憶

www.nikkan-gendai.com

「大道さん。こんなのが出てました」とわざわざ教えてくれた奴がいて、この記事を知った。

秋山は芹沢とほぼ同期。

それも当たり前で、ニッポン放送の出待ちで弟子志願者同士仲良くなって、芹沢が先に紛れ込んで、秋山と連絡を取り続け、芹沢の手引きで、日テレに出入りさせ、便所の個室前に待ち伏せして土下座で直訴した男。

俺はこういった手段を選ばず、場所をわきまえない、要は気を遣えない人間が一番嫌いだ。

「弟子入り志願」という自分にとって肝心で厳粛な場面で「何でもあり」と考える下品な姿勢。

個室の前で待つなど、どういった了見だ。

尊敬している相手の事も考えられない程度なのか。

芹沢も勘違いが甚だしい。これが友情とでも思っているのだろうか。

この2人は揃って役者くずれで口が軽く、それが原因で面倒な目に遭わされた事が多く俺の印象は良くない。

ーー当時は殿の配慮で軍団に太田出版から本を出版させる流れがあった。

俺はと言えば、とにかく当時「ビートたけし」の名で露出や世話になる事を避け続けた。

唯一、求めるモノはボーヤで勉強させてもらう事だけにしたかった。

それだからTV出演も途中で外してもらった。本を出すなどとんでもない。

ーー秋山の本には俺の事が悪く書かれてある。

当時の俺は、甘えて、なっちゃいない奴には厳しかった筈なので、良く書かれる筈がないだろうが、秋山は1つだけ思い違いしている事がある。

それは秋山見学者という名前は俺がつけたと言う事実だ。

秋山は当時、入門が認められたのかどうか曖昧な状態で、見学は許され軍団周辺をうろついていた。

日テレの特番で、出演者を順番に殿や軍団、局のスタッフと共に楽屋で確認している時に「あいつ何だっけ?」と秋山の話が出た。

俺は「ああ、見学に来ている奴ですね」と言った。

「名前は?」と聞かれ、

「確か秋山とか....だから秋山見学者で良いんじゃないですか?」

その場は妙にウケ、爆笑になった。そこで台本に書き込まれた名が「秋山見学者」だった。

秋山は本に俺に事を悪く書こうと、自分の名付け親はまさかその嫌いな俺だとは今の今まで知らないのだ(笑)

秋山は片足が悪く、走るとピョコピョコとかなり大げさにビッコを引くので「ビッコ秋山」ものちに検討されたが、それは放送禁止だし、浅草キッドブラザースと一緒にたけし城に挑戦者として出演していても足元がどうも画(え)的に具合が悪い。

たけし城の控え室で殿や軍団と「アイツ足悪いのか!?」という話になり、秋山を呼ぶと遠くからピョコピョコやって来て、皆が笑いをこらえた(ひでー話(笑)

「秋山だけ足元にモザイクかけますか」と俺が言うとこれも妙もウケた。

その後、本の通り芹沢の後を継いでドライバーになった秋山だが、当時島田洋七師匠のボーヤだった池田が俺と仲が良く、殿と洋七師匠は親友なので一緒に遊びに行くことが多い。

だから池田から秋山の事があれこれ耳に入った。

「大道さん。秋山さん勘違いしてまっせ。あれはまずいのとちゃいますか。なにかと自分が選ばれた人間みたいな話を散々聞かされて、かないませんわ....」

その話の通りに秋山は勝手に殿の車を乗り回しバレた事もあった。どうも女に良いところを見せようとしたらしい。

また、ドライバーで多少小遣いを貰えるようになると「僕だけお金をもらうのは申し訳ないので、浅草キッドブラザースや他のメンバーにもお金をあげてもらえませんか」と直訴に来て、殿を大いに呆れさせた事件も記憶に新しい。

まあ、浅はかでくだらない男だった。

それでも映画にも出演できていい思い出だったんじゃないのか。

ーーなんだか秋山の事を散々に書いたが、俺のブログはこんな事を書くためのブログなのでね(笑)

 

「あるあるネタ」の元祖はビートたけしなんだよ。

現在、お笑いで「あるあるネタ」ってのが、いちカテゴリとして確立された感がある。

もはや一般人でも「ナントカあるある」として日常生活にも溶け込んでいるように思う。

 

しかしこれの元祖がビートたけしである事はあまり(まったく?)知られていない。

俺が知る限り1980年からの「THE MANZAI」から「よくいるバカ」という流れでやっていた。

「行列があると、とりあえず並ぶバカ」や「田舎者のありがちな行動」などとツービート流の毒舌スタイル。

客は「いるいる!」「あー!あるある」と実は自分のことであるのも忘れて笑うという。

確か当時の著作「ツービートのわッ毒ガスだ」でも「あなたはこんなバカではない」との括りで収録されていたと思う。

 

肝心なのは殿本人が「あるあるネタは自分が元祖」と自覚しているという事。

なんでそれを俺が知っているかと言えば、本人に聞いた事があるから。

1985年あたりだったか、当時「新人類」などと気勢をあげていた「中森明夫」が週刊誌上でたけしさんにそのネタで噛みついた事があった。

「“跳び箱を跳べないような奴”とかもっと面白い(これ自体ホントつまらなかった...)言い方が出来ないのか」などと「俺の方が面白いことを言える」的な煽りだった。

当時、各局8時台のゴールデンタイムで視聴率トップを記録し「怖いものなし」のビートたけしに噛みつくような人間はいなかったので、この記事はちょっと話題になった。

ボーヤだった自分はその記事を知り、怒りを感じつつ、殿を窺(うかが)っていた。

しかし、一切リアクションをしないどころか、いつもと全く変わりがない姿に「もしかして記事のことを知らないのでは?」と思い、直接聞いた。

「記事の事はご存じですか?」「反論しないんですか?」と。

曰く「ああ、読んだ読んだ。あいつ、そもそも俺が創ったネタのスタイル上でゴチャゴチャ言ってるだけだって事に気付いてない。ほっとけばいい」

との「まるで意に介してない」といった感じのそっけない返事だった。

以前Twitter でも書いたが、お笑いタレントがたまに使う「と、言うわけで」からはじまるMCは元々「どんなワケなんだよ!」とツッコミが入る前提でビートたけしが考えたもの。

にも関わらず、そんな背景も知らないし「どんなワケなんだよ!」とのツッコミが入らなければ本来成立しない事さえも気付かないまま、ましてやその元祖がビートたけしである事さえ知らぬまま現在までに一般化してしまっているのと同じように、

ラジオのパーソナリティやとんねるずをはじめとした後の世代のお笑いタレントのネタとして「無意識のうちに」それを模倣し「あるあるネタ」として現在に至っている。

つまりそこまでビートたけしがバラエティで築いた「文化」が多大な影響を与え続けている証左だろう。

本人も最近は現在の「バラエティ番組」のスタイルの多くは自分が創ったと語っている。

しかし今回の件は、俺が当時聞いたから俺にはそう答えたが、それ以後そんな事を本人は公の場では言った事はない。

多分それは江戸っ子の気風から無粋で下品な行為と考えているのかもしれない。

でも俺は言っておくべきだろうと思い今回記した。

 

 

「龍三と七人の子分たち」と「忘れられぬ人々」

www.ryuzo7.jp

「龍三と七人の子分たち」は結局仕事が忙しく見逃した。

ただしメディアで大体のあらすじは確認した。

ところでこの映画のあらすじを聞いて、昔見た映画と重なった。それは篠崎誠監督作品の「忘れられぬ人々」(2001年公開)。

movie.walkerplus.com

Dollsにも出演した三橋達也さんが偶然にも出演している。

Dollsはこの映画の次の出演作品だ)

似てると言うのは、昔威勢の良かった男どもが、ひょんな事から、晩年に弱者を狙う「許しがたい悪」と出会い、昔の仲間を結集させて派手に暴れるーーという筋書きの部分だ。

この「忘れられぬ人々」では元帝国軍人が、他の高齢者を食い物にする詐欺商法を手がける「巨悪」に憤り「昔取った杵柄」よろしく軍人の精神で斬り込んで行く。

忘れられぬ人々」はごくシリアスな映画だが、似たようなエピソードで北野武が制作するとこうも変わるのかとも思うが、「笑い」は歴史上、常に「絶望」と表裏一体でもあるので、この2作品、案外「メッセージ」は通底しているのかもしれない。

ビートたけしの「死刑制度廃止論」

news.mynavi.jp

「死刑だけでは、殺しただけでは済まない。もっと生きるための努力をさせるような方法を」

 こんな記事があった。

「やはり殿は違うな」と改めて感じ入った。

ーー実にセンシティヴなテーマである。

ビートたけしファン」を自称する者でも今回は同調できなかったのではないか。

しかしそれでは殿の深淵を覗く事は到底出来得ないだろう。

なぜ、殿はそんな風に語るのか。

「死刑制度」を議論する番組で「死刑反対派」はことごとく劣勢だ。

「良識派」は、持論がたとえまったくロジカルではなく、単なるお粗末な、むき出しの感情論そのものであっても「死刑必要論」に一欠片の疑問も持たぬ様子だ。

そこへ現在では希な存在、国民的タレントである殿が、劣勢を充分に承知で(実は過去に何度も同旨の発言はしてきている)ハッキリと「死刑反対派」を標榜している。

ーー「死刑制度」は国連から「死刑制度廃止」を求められるほど、日本を「人権後進国」と捉えられる一要因でもあり、アメリカの対応(州ごとの差異と人権保護施策)を除けば世界の先進国では概ね「死刑制度」は廃されて(事実廃止も含め)いる。

同時に世界的に死刑制度と犯罪抑止効果ーーは因果関係を持たない事も広く知られている。

この議論に対しては必ずと言って良いほど「自分の家族が殺されないと分からないのだ」「殺された人間の人権はどうなるのだ」と批判が飛ぶ。これに対しては良い書籍があるので、一読してほしい。

殺された人間の人権と殺した人間の人権に差はない。あるはずもない。

 私はフランスミッテラン政権(1981-1983)で法相を務め、国民の意見の過半数が「死刑制度存置」であったにも関わらず死刑制度を廃止したロベール・バタンデールに一時傾倒した事があり、同じく「死刑制度反対派」だ。


ロベール・バダンテールの死刑廃止演説 - YouTube

彼はフランス国民議会、死刑廃止法案の審議でこう述べた。

 結局、死刑廃止とは一つの根源的な選択であり、人間と司法についてのある一つの構想なのです。

人を殺す司法を望む人々は、二重の「思い込み」に動かされています。


一つは、完全に有罪の人間、つまり自分の行為に完全に責任のある人間が存在するという「思い込み」。

もう一つは、こいつは生きてよい、こいつは死ななければならないと言いうるほどにその無過誤を確信した司法が存在する可能性があるという「思い込み」です。

私はこの歳になって、この二つの断言はどちらも等しく間違っていると思います。

彼らの行為がどれだけ恐ろしくどれだけ憎むべきものであろうとも、完全な有罪性を持っていて永遠に完全な絶望の対象にならなければならない人間はこの地上にはおりません。

司法がどれだけ慎重なものであっても、また、判断をくだす陪審員男女がどれだけ節度がありどれだけ不安にさいなまれていようとも、司法はずっと人間の行いでありますから、誤りの可能性をなくすことはできません。

 では俺はどう考えているかと言えば、心から日本の凶悪犯罪は減って(なくなって)欲しいと願っているが、その要因は「政治と親も含めた社会が生み出した問題」と捉えている。

決して犯罪者のみ一方的に科す考えはない。

また「死刑制度」は「人を殺す事で問題を1つ解決する」行為であり、これを例えば子供にどのように説明するのであろうか。

日本において極刑は死刑であるが「死刑さえ覚悟するなら何をやっても良い」との思考を認めざるを得ない構造的欠陥がある。

事実近年では自殺志願者が「自殺したいが自分では怖くて出来ない。しかし人を殺せば死刑になって殺して貰える」との考えで犯罪に及ぶケースが起こるにつけ、制度として既に破綻の様相も帯びている。

話を戻すが、殿の今回の発言は「誰よりも人間の業と死を深刻に考え抜いている」が故のものと私は受け止めた。

もとより自らが死に直面した事もあり軽くはない。

内容はいわゆる「矯正」の可能性であり、自らが起こした罪への償いを「生きる事で果たす」事を促すものだ。これも実に厳しい事である。

しかし多くの死刑賛同者達は、あたかもバジェットに極悪人全員が詰め込まれていて、順番に殺して行けばいつかは犯罪者がいなくなるかのような幻想を抱いているのではないだろうか。

そして「死刑執行の行為は執行人が人を殺す行為」である。そこには皆の眼前でそれが執り行われないが故の「他人事」の意識が横たわっている。

そのイマジネーションなき人間は「死刑の是非」を語る資格がないと私は考える。

そして肝心なのは、今回ビートたけしが語る「人間の“業”と“罪”と“命”」は北野作品では常に一貫して問われているテーマでもあるという事だ。

ーーいつか殿と「死刑制度」を語り合いたいものだ。

 

そして、死刑は廃止された

そして、死刑は廃止された