希土色の刻

KidocolorOhmichi's Reminiscences

ビートたけしは「俳優いかりや長介」の夢を見るか?

natalie.mu

少し前のものだが、このインタビューの雰囲気がいい。

内容というより、二人の距離とその間を漂う空気感が。

西島さんは別な場で「私はたけしさんの弟子です」とも語っているが、実際『弟子』と名乗るにふさわしい方だと思う。

『弟子』とは師に学び、その『学び』を自らの『個』へ採り入れ、換骨奪胎した上で自分のものとし『実力』で結果を出した者だけに名乗る権利がある(守・破・離とも云う)

結局、多彩な活躍を見せたビートたけしの正統な「弟子」とは、このように(いわゆる)軍団以外から登場するものなのかもしれない。

傍に長くいれば痲痺し狎れてしまい、学んだものを活かそうとも思わなくなる。

 

本題だが、ここで殿は「役者としての俺は下手だよって普段から言っているんだよ。ひどいときには「俺はカンペがなきゃやんないよ」とか言っているし(笑)」

と語っている。

自分は過日のデビッド・ボウイ死去の報に際し自然、出演作である『戦場のメリークリスマス』を想起し、共演者であった「役者ビートたけし」にも連想は及んだが、そこで昔の出来事を不意に思い出した。

ーー確かあれは1987年頃だったと思う。

高視聴率を誇った人気番組『8時だョ!全員集合』が16年の歴史に幕を下ろし、それに伴い、ザ・ドリフターズとしての活動は休止し、リーダーであったいかりや長介さんは俳優活動に身を投じた。

そしてNHK大河ドラマ独眼竜政宗』では一定の評価を得るに至った。

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そんな頃、どこか局の楽屋だったと思うが、たけし軍団を前に、リラックスした場で殿が不意が言った。

「いかりやさんは役者やってもやっぱ“ドリフターズいかりや長介”だよな。どうみたってよ」と笑っていた。

自分なりに『独眼竜政宗』あたりを観た感想なのだろう。

ただし、こんな時、眼前の我々は実にリアクションが難しい。

ーー誤解しないで欲しい。

ビートたけしが先輩であるいかりや長介を批判した」などと云う単純で薄っぺらな捉え方はやめて欲しい。

これは、今では少なくなった「生粋の江戸っ子」固有の特徴でもある。

普段から裏表がない代わりに「そんな事言っていいのかよ」と周囲がギョッとするような本音を時折ペロッと口にする。

本音には違いないが「悪口」とも違う。

それも「悪意」だとか感情にまみれた陰湿さを一切孕むものではなく、カラッとした調子で言ってのけるのだ。

 

ーーやはりキャリアの殆どが最前線のバラエティであったタレントに、その先入観を抜いて、劇中の役柄を純粋に観ることは難しい。

それは自分も言われてみれば以前から感じていた事でもあった。

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その後、火曜サスペンス劇場の『取調室』シリーズで水木正一郎警部補役からはじまり、他の作品でも次第に刑事が「はまり役」となっていったように思う。

今思えば亡くなるまでの20年近くを俳優として活躍したのだ。

ーーしかし、前述の言葉を受けて考えるに、殿自身はどうなのだろう。

自分も、どのTVドラマや映画の出演作品を観たとしても客観的に「配役」として捉える事が難しい。というか正直言って全く出来ない。

どうみても「バラエティのビートたけしが映画に出ている」としか思えないのだ。

ただし自らの監督作品では「本当は出たくないけど興行収入を考えるとプロデューサーから“出て欲しい”と言われる」と嘆きつつ、不本意ながらも出演する理由も語っている。

特に主演になると「ビートたけしのプロモーション」としか思えない結論がある。

観ている自分は、やはりストーリーそのものに没頭しているとは云いがたい。

「ある時代にどこかの場所でこんなストーリーがあったのだ」という「リアリティ」がほとんど感じられない。

皆はどうなのだろうか。

どうもこれは「演技力」の次元ではなく「過剰な存在感」の仕業なのかもしれない。

例えば自分が殿の監督・出演作品で好みのものを挙げるなら、自身の人生を大団円式に振り返る『キッズリターン』(これは殿のメンタルから掘り下げ、別の機会に分析したい)


キッズ・リターン - 劇場予告編 (Takeshi Kitano)

 なぜか唐突で変則的なタイミングに制作された、冷静に考えるなら背景と動機に『謎』多き『菊次郎の夏』(これも一度、考察を踏まえて別の機会に掘り下げたい)


映画「菊次郎の夏」劇場予告

ーーこのあたりだろうか。

冒頭の西島秀俊さんが主演された『Dolls』(これは殿の極めて内省的な部分が投影された作品であるが、諸般の事情から今は評価を控える)も大変気になる作品だが、最後までしっかりバランスさせる事が出来なかったと思う。


『Dolls』予告編 北野武  トレーラー Trailer trailer

やはりこの3作中2作は『役者ビートたけし』が存在しない。残りの1作も実は奇妙な立ち位置で出演している特殊な作品だ。

そもそも論として、北野作品はいずれも動機に必ずその時々の内省性が加味される「手強い作品」と思う。自分もここでは「好き、嫌い」形式の単純な評価を下す気はない。

ーー別の場で殿が語っているが「映画を撮るようになって監督の気持ちがわかるようになった。だから他の監督作品では言われたとおりにやって余計な事をやらない」との事だから、他の監督での出演作品は、本人には与り知らぬ部分でもある。

ーー結局自分は、あの当時殿は「俳優いかりや長介」をああ評したものの、結局今度は「俳優ビートたけし」が同じ立場になったのではと感じた。

あの時の言葉を殿は果たして覚えているのであろうか。

そして「今ならどう思いますか?」と是非問うてみたい。きっと答えは当時と違っているはずだ。

 

いかりや長介という生き方 (幻冬舎文庫)

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2016/1/10デヴィッド・ボウイ死去〜個人的な想いを寄せて〜

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誰しも様々な縁やキッカケを重ねながら人生を歩んでいる。

自分もそれは同様で単純ではなかった。

小学校時代からロックに傾倒した自分は“Ziggy & Iggy”の頃からデヴィッド・ボウイが好きだった。

そしてビートたけしへの念いを胸に上京した1984年には下記の要素が密接に絡み合っていた。

  1. 「東京ロッカーズ」で中心的存在、MOMOYO率いるLIZARDの「浅草六区(バビロン・ロッカー)」ビートたけしの「浅草」との符号。
  2. 当初音楽の道を志していた同級生の事故死(彼が音楽仲間では一番親しかった)
  3. デヴィッド・ボウイのアルバム「Diamond Dogs」から9曲目“1984”の存在。

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3.のアルバム「Diamond Dogs」はジョージ・オーウェルの小説『1984』にインスパイアされている。

読んだ方もいると思うが、要は社会主義国家の究極「管理社会」への警鐘である。

そんな自分の政治的意識の下敷きには、先に挙げたMOMOYOさんの強い影響がある。そもそもブリティッシュロックも政治的なメッセージが強い。

パンクムーブメントもゴリゴリに政治的なメッセージに溢れている。

MOMOYOさんはストラングラーズのJJバーネルに見いだされたが、MOMOYOさん自身も水俣病を訴えた「SA・KA・NA」というミニアルバムを自主制作(メジャーリリースは金儲けに繋がるため)でリリースするなど、社会問題を楽曲に込めるアプローチを続けていた。

このLIZARDを俺に紹介してくれたのが事故死した2.の友人だった。

これらの要素が「必然」として絡み合った上で、最後に「管理社会」へ警鐘を鳴らすボウイの“1984”に自分の中の「何か」がキリキリと反応し行動を起こさせた気がする。


David Bowie - 1984

また数奇な点としてボウイは、1983年に『戦場のメリークリスマス』でビートたけしと共演を果たしているが、この2人の誕生日は1947年1月8日と1947年1月18日と、10日違いの同年齢だったのだ。

しかしそれを2人が認知しているかは分からない。

ボウイは結局自分の69回目の誕生日まで頑張ったと言うことだろうか。

ーーボウイはその耽美的印象に反し、以外と政治的作品の関わりがある。

上記作品の他に1986年の冷戦下、核戦争の脅威を訴えた英作家レイモンド・ブリッグズ作マンガの映画化作品『風が吹くとき』の主題歌も自ら参加している。


David Bowie When the wind blows

冷戦は終結したが、核の脅威は今日まで続いており、この曲に込められたメッセージは今もなお説得力を湛えている。

ーー69才という年齢も言われてみれば、自分の齢も51となり、おどろくものではないが、過去にまばゆい記憶を与えてくれたヒーローはどこか永遠に死なないものと錯覚している部分がある。

それだけに「あ、ボウイも死ぬんだ」と今回の訃報に際し間抜けな反応をしてしまった。

言うまでもなく、彼の影響は日本でも強く、BOØWYもその名の通り、デビッド・ボウイに影響されたバンドで、そのフォロワーがグレイであり、その他「ビジュアル系」と一括りされるアーチストはボウイに連なる存在と言えるだろう。

さて、来週はたけしさんの69回の誕生日だね。

 

 

たけし軍団発“幻”のアイドル“トリオ”

1985年の年明け早々、殿へ水島新司先生から相談があった。

「ウチの長男(新太郎)が今年高校卒業で、役者の勉強をしたいと言っている。たけしさん、どこかいいところ(劇団や養成所)知らないですか」というものだった。

それに対し「だったら、劇団じゃないですが、よかったらウチで預かりますよ」と返した。

そんな経緯で新太郎は軍団に加わる事になった。

彼は“左腕の剛速球投手”の夢を水島先生に託され、幼少時から左利きで育てられた。

しかし高校入学までは順調だったかに見えたが、子細はさておき、既に彼は野球を辞めてしまっていた。

それでも堀越という校風故か彼は芸能界を志向していた。

状況は1984年末から自分、大阪百万円と、その前から宙ぶらりんな存在であった吉武、出戻りの古田とまとまった人数が揃いはじめていた頃。

まもなく談かんを通じて

「新太郎が軍団に加わる事になった。しかし言っておくがオマエらとは身分が違うからな」

と言い渡された。

このように“一言気に障ることを言う”のが彼のクセだ。

預かり先は西新宿の『ゆたか荘』から中野坂上『小林荘』に移転したばかりの談かん宅。その時点で次の住まいを決めあぐねているユーレイと大阪百万円。そして俺がいた。

この3人は『ゆたか荘』からの居候。この時代は『小林荘』の最盛期だった。

(のちに部屋を決めたユーレイが先に出、春には殿の指示で、大阪、大道は東宅へ移転、新太郎だけが小林荘に残った)

5人が同居していた『小林荘』はさながら合宿所で、今振り返ってもこの頃が一番楽しかった。我々も「この先はなんとかなるだろう」と若さ故の無根拠な自信もあった。

談かんは木造のアパートが好きで、この『小林荘』も古い建物だった。ほどなくファンにもバレるのだが、そんな「ユルさ」も半ば楽しんでいるところがあった。

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さて、この時期は振り返ると『ビートたけしバラエティ黄金期』のはじまりで、スケジュールは殺人的に過密。

江戸っ子の気風で威勢のいいことを水島先生へ言ったものの、現実的には殿本人も新太郎の事を考える暇(いとま)などない。

そのため一旦太田プロに託し、方向性として“お笑いではなく役者へ繋がる道筋”へと模索に入った。

この頃はとんねるずがフジテレビの『オールナイトフジ』を根城にブレイクしはじめた頃で、業界では彼らの“二匹目のドジョウ”狙いで“ちょっと口が達者で見映えのするコンビ”を大手プロダクションが急造し推す動きが流行った。

中山秀征がいた『ABブラザース』などもそうだった。

そんな業界のトレンドはいかにも軽く、完全なる“ビジネス”視点でありお笑いを“甘く見ている”としか思えないもの。

当然殿は「あんな風にはさせない」と考えていたようだった。

しかし検討の末結局は「マスクもいいし、とりあえずアイドルをやらせよう」となった。

今思えば当時の殿はチャレンジ精神旺盛ーーといえば聞こえがいいが「オレがやればなんでも成功する」と信じ切っており、確かに自己の守備範囲ではそこから“自分の時代”を築き、大成功するわけだが、俺個人の感覚としても『浅草芸人』に“アイドルのプロデュース”はさすがに埒外な感は否めなかった。

プランニングは春以降も続き、まず草野球で新太郎が助っ人でいつも声をかけていた堀越の同期(当時東芝府中野球部)長嶋に白羽の矢が立った。

彼は特別にマスクが良いわけでもない。今思えば“安直”と思う。

殿は「野球をやらせると性格が分かる」と日頃から言っていたから、あるいは長嶋の人物を草野球で接する中でそれなりに掴んでいたのかもしれない。

「おい。あの長嶋って奴今度呼んでこい」

と呼びつけ

「新太郎とアイドルをやらないか」

ともちかけたのだった。

それと同時にたけし軍団以外に増えてしまった“セピア”の事もあれこれ日常から考えていたようで、顔が“素”でお笑いにしては中途半端、では“男前”かと言えばそうでもなく「多分お笑いは無理だろう」と思われていた(と思う)俺に「トリオの3人目のメンバーならギリギリいいだろ」と考えたかどうかは定かではないが、日テレの楽屋で声を掛けてきた。

「大道。新太郎と長嶋と一緒にアイドルやれ。明日から一緒に行動しろ」と命令が下った。

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 当時は“殿の言葉は絶対”で、俺もボーヤをやる以前で、普段話をする機会もなかった。だから緊張を伴って「ハイッ!」と元気よく思考することなく返事をした。するしかなかった。

その日から3人は仮称で『おぼっちゃま隊』と呼ばれた。この当時『トリオ』と言えば『少年隊』だった事から自然とそうなった。

ーーさっそく翌日から青山のビクタースタジオに通いボイストレーニングに励んだ。

だが3日も経った頃、徐々に耐えられなくなった。

勧められるまま美容室で“それ風”な髪型にしてみたり、太田プロ事務所に呼ばれ、デビュー用コスチュームの試作品の採寸とチェックをしたり、それなりに準備は進んでいた。

ーー俺はお笑いの勉強をしに入門したのであって“なんでも良いからTVに出たい人間”とは違う。“ビートたけしのそばにいたい”わけでも、当然“たけし軍団に入りたい”わけでもない。

ハナから「自分で漫才を組んでそのうちここを出よう」と計画を決めていたのだ。それだから今回の流れに対する違和感が凄まじかった。

 

そんなある日、ファンレターを取りに太田プロへ行った際、居合わせた磯野勉社長へ不安な胸の内を吐露した。

社長は普段から何かと俺に気遣ってくれる方で、自分も慕っていた。なんでも話せる空気をいつもつくってくれる人だ。

穏やかな笑みを浮かべながら

「そうか大道君は不安か」

と頷きつつ話を聞いてくれた。そこへ副社長が会話に加わり

「大道。でもお笑いは本当に難しいよ」

と厳しい口調で言った。

太田プロは1960年前半に設立され、ホリプロナベプロら大手より数年遅れたものの、落語、伝統芸能以外の演芸系事務所としては20年の歴史がある。そこからの経験なのだろう。その言葉には深さと重みがあった。

意を汲めば「どうせお笑いでは成功など望めない。せっかく機会をもらったのなら、やるだけやってみなさい」と聞こえた。

これはのちに猿岩石をお笑いよりアイドルの方向性で売った方針と一貫している。

とはいえ、それからも、今から思えば二週間程度の事だったが、新太郎と長嶋はそれなりに心を決めてレッスンに励んでいた傍で、いよいよ迷いながら関わる俺は心苦しくなった。そして限界に達した。

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こうなると相談する相手はラッシャー板前しかいない。

いまでも俺にとって本当の意味で“兄さん”と呼べる存在。幸い当時は同じ『四谷サンハイツ』の3Fと2Fの関係で、じっさい一番身近な存在でもあった。

物事を常に真剣に考えており、軍団では“まれ”な人物だ。しかも男気がある。

 

「そうか。実は俺も心配していたんだ。大道はどう考えてるんだろうってね」

2Fの部屋で、相談に訪れた俺の話を聞き、咥えていたタバコを灰皿でもみ消しながら、しみじみと言った。

それはつまり、俺が加わる事にやはり傍からみても“無理”を感じていたのだろう。

そして、

「大道。だったら、殿にそれを直接言ったほうがいいぞ」

と言われた。

俺は少なからず驚いた。ボーヤでもなかった当時、殿にそんなことを直接言えるなどと考えた事もなかった。

この当時は完全に俺にとってありふれた表現ながら『雲の上の人』

普通に話が出来る対象とも考えていなかった。今回の事も『絶対命令』と思い込んでいた。

具体的に「どうしたら良いか」を問うと、当たり前のように「電話を入れた上で訪ねろ」といい、なおも戸惑う俺に“安心しろ”とばかりに相好を崩しながら

「殿はそういう話はちゃんと聞いてくれる方だよ」

とも付け加えた。

オフの日、在宅の時間帯に、意を決したものの、まだ迷いの残る指で電話を架ける。

「そうか、来いよ」

とあっけない返事。

急いで腰を上げ、小雨が降る中、『パレ・エテルネル』を訪ね、2人きりで向き合う初めての体験に、経験したことのない緊張が全身を包む。

ノックをし、リビングに入る。部屋には当時好んでいた男性用香水“アラミス”の香りがかすかに漂っている。そして顔を上げると目の前にはあの『ビートたけし』がいる。

本当に当時はまだそんな『距離感』だった。

部屋に入ると、床にあぐらをかいて座っていた。

神経質そうに、TV同様に目を瞬き首をカクカクさせつつ、時折りまぶしそうに目を細めタバコをくゆらせている。そしてぶっきらぼうに

「話ってなんだい」

と言葉を投げた。

促されるまま、ここ数日の心情と自身の考えを全て話した。

ひと呼吸間があいた。

新たなタバコを一本手に取り、逆さにし、とんとんとタバコの箱を叩き、火を点け、ひとふかし、煙をため息のように吐いてから口を開いた。

「誰かに相談したか?」

恐らく俺あたりの人間が直接電話して来る流れに何か察するものがあったのだろう。

「ラッシャーさんにしました」

「で、ラッシャーはなんて言った?」

「ハイ、殿は自分の考えを話せばしっかり聞いてくれる方だと」

「ふ、何を言ってやがる」

そういって「あいつ。生意気に」とでも言いたげに口元をほころばせた表情には、ラッシャー板前と殿との軽くない信頼関係が透けて見えた。

そしてやや思案があり、口を開いた。

「そうか。でもあれだな、オマエが自分から“抜けたい”と言ったと知ったら、あとの2人は気分が悪いだろう。オマエらの人間関係もあるだろうから、おれがうまくそこは言っとくからな」

ーー拍子抜けした。

“お前は何様だ”

“俺に言われた事が出来ないのか”

“どういう勘違いをしてるんだ?”

などと、厳しい言葉があるかと思っていたし、あるいは

“そうか、じゃあ今日で(俺の所は)やめていいぞ”

などと言われる覚悟もしていた。

ラッシャー板前から、ああは言われていたものの、ビートたけしという人物はそんな、アッサリと冷酷な言葉で手を下しかねない、残酷な気配も同時に漂わせていた。こういった面は傍にいなければなかなか感じられるものではないが。

だが、予期していた“厳しい言葉”も、結局それは“相手にしてくれている”次元であって、当時の自分などは切った方が早い程度の存在だったはずだ。

ともあれ、場を辞し翌日、TV局の楽屋で軍団全員が揃う前で「大道がおぼっちゃま隊から外れる」旨、殿から発表があった。

そこでは

「大道は性格が暗いからアイドルに向かない」

などと、あくまで「殿の判断で外した」事を強調していた。

自分はその配慮にひたすら申し訳のない心持ちだった。

その後、殿はユーレイを代わりに入れてみるなど試行錯誤をしたが、結局正式名称を『おぼっちゃま』とし、デュオの形でデビューさせる事になった。

彼らはシングル4枚までリリースをしたが、事務所がオフィス北野に移行する中で、活動は半ば自然消滅となった。

ともあれ、一時期は『トリオ』のセンで進められていたのだったが、今考えても、どのみち、あらゆる面から、あり得なかったと思う。

だが、自分にとっては二人きりで話をした最初の機会と、後にボーヤ志願へ繋がる『ビートたけしの体温』を直接感じる事が出来た、忘れ得ぬ場面だったのだ。 

 

 

 

 

 

 

2016年12月9日『フライデー事件』30周年

2015年となり、来年の12月9日でフライデー事件から30周年を迎える。

10周年にあたる1996年は日本におらず、そのせいもあってか完全に忘却し、20周年である2006年もやはり思い出す事さえなかった。

今回に限ってなぜか意識したのだった。

 

改めて思ったのは、この事件をその発端から最後まで通して観ていた当事者は俺だけと言うこと。

発端からは菊池さんが関わっていたが、講談社で乱闘の場面にはいない。

殿自身は強引な取材を行った本人が以前面倒をみた人物と当初知る由もなかった。

たけし軍団も当日呼び出された時点ではそれ以前の経緯を全く知らない。

だから当日呼び出され、怒りから早口になった殿の説明を聞いても、要領を得ない表情のまま現地に向かったのだった。

ーー季節は冬。年末で年始の番組も含めた「撮り溜め」の時期で滅法忙しかった。

菊池さんから改めて「こんな事が起こっている」などと説明こそなかったが、常に太田プロと菊地さんのやりとりを耳にしている俺は、リアルタイムで状況を把握していたし「これはただでは済まないな」とも感じていた。

だから帰路の車中で「大道。軍団を四谷サンハイツに集めろ」と指示される流れで、次元は違うかもしれないが、怒りは共有していた。

ーーしかし何も恐れていなかった。

当時の自分は若さ故の無謀もあったし、先輩であった軍団とのささくれ立った関係と、常に強迫観念に駆られたような環境から次第に追い詰められ、一種「命知らず」の状態になっていた。

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ともあれ、お子さんも今では大人になり、そもそもその「発端と事情」も繊細なものがあるから「今さら掘り起こしてくれるな」と殿は思っているかも知れない。

しかしどうにも「当事者」としての責任を共有されている感覚もある。

ともかく、いずれ時が来たらまとめてみたいと思う。

放っておけば東をはじめ、誰かが適当に(きっと自分の都合を込めて)話を捏造し始めるだろうから。

まあ、東は乱闘に加わらず、たけしさんと軍団を「見殺し状態」にし眺めていたのだから、乱闘の光景は誰よりも全体を観ていただろうけども。

ーーもう一度書くが他の軍団は殴り込みの当日からしか関わっていない。

大塚署の話も不正確な話が美談めいて広まっているが、あれも誤りだ。殿といられた場面はホンの少しだったのだから。

ホント、人間は自己中心に、そしていい加減に変わってしまうものだとつくづく思う。

秋山見学者の記憶

www.nikkan-gendai.com

「大道さん。こんなのが出てました」とわざわざ教えてくれた奴がいて、この記事を知った。

秋山は芹沢とほぼ同期。

それも当たり前で、ニッポン放送の出待ちで弟子志願者同士仲良くなって、芹沢が先に紛れ込んで、秋山と連絡を取り続け、芹沢の手引きで、日テレに出入りさせ、便所の個室前に待ち伏せして土下座で直訴した男。

俺はこういった手段を選ばず、場所をわきまえない、要は気を遣えない人間が一番嫌いだ。

「弟子入り志願」という自分にとって肝心で厳粛な場面で「何でもあり」と考える下品な姿勢。

個室の前で待つなど、どういった了見だ。

尊敬している相手の事も考えられない程度なのか。

芹沢も勘違いが甚だしい。これが友情とでも思っているのだろうか。

この2人は揃って役者くずれで口が軽く、それが原因で面倒な目に遭わされた事が多く俺の印象は良くない。

ーー当時は殿の配慮で軍団に太田出版から本を出版させる流れがあった。

俺はと言えば、とにかく当時「ビートたけし」の名で露出や世話になる事を避け続けた。

唯一、求めるモノはボーヤで勉強させてもらう事だけにしたかった。

それだからTV出演も途中で外してもらった。本を出すなどとんでもない。

ーー秋山の本には俺の事が悪く書かれてある。

当時の俺は、甘えて、なっちゃいない奴には厳しかった筈なので、良く書かれる筈がないだろうが、秋山は1つだけ思い違いしている事がある。

それは秋山見学者という名前は俺がつけたと言う事実だ。

秋山は当時、入門が認められたのかどうか曖昧な状態で、見学は許され軍団周辺をうろついていた。

日テレの特番で、出演者を順番に殿や軍団、局のスタッフと共に楽屋で確認している時に「あいつ何だっけ?」と秋山の話が出た。

俺は「ああ、見学に来ている奴ですね」と言った。

「名前は?」と聞かれ、

「確か秋山とか....だから秋山見学者で良いんじゃないですか?」

その場は妙にウケ、爆笑になった。そこで台本に書き込まれた名が「秋山見学者」だった。

秋山は本に俺に事を悪く書こうと、自分の名付け親はまさかその嫌いな俺だとは今の今まで知らないのだ(笑)

秋山は片足が悪く、走るとピョコピョコとかなり大げさにビッコを引くので「ビッコ秋山」ものちに検討されたが、それは放送禁止だし、浅草キッドブラザースと一緒にたけし城に挑戦者として出演していても足元がどうも画(え)的に具合が悪い。

たけし城の控え室で殿や軍団と「アイツ足悪いのか!?」という話になり、秋山を呼ぶと遠くからピョコピョコやって来て、皆が笑いをこらえた(ひでー話(笑)

「秋山だけ足元にモザイクかけますか」と俺が言うとこれも妙もウケた。

その後、本の通り芹沢の後を継いでドライバーになった秋山だが、当時島田洋七師匠のボーヤだった池田が俺と仲が良く、殿と洋七師匠は親友なので一緒に遊びに行くことが多い。

だから池田から秋山の事があれこれ耳に入った。

「大道さん。秋山さん勘違いしてまっせ。あれはまずいのとちゃいますか。なにかと自分が選ばれた人間みたいな話を散々聞かされて、かないませんわ....」

その話の通りに秋山は勝手に殿の車を乗り回しバレた事もあった。どうも女に良いところを見せようとしたらしい。

また、ドライバーで多少小遣いを貰えるようになると「僕だけお金をもらうのは申し訳ないので、浅草キッドブラザースや他のメンバーにもお金をあげてもらえませんか」と直訴に来て、殿を大いに呆れさせた事件も記憶に新しい。

まあ、浅はかでくだらない男だった。

それでも映画にも出演できていい思い出だったんじゃないのか。

ーーなんだか秋山の事を散々に書いたが、俺のブログはこんな事を書くためのブログなのでね(笑)

 

「あるあるネタ」の元祖はビートたけしなんだよ。

現在、お笑いで「あるあるネタ」ってのが、いちカテゴリとして確立された感がある。

もはや一般人でも「ナントカあるある」として日常生活にも溶け込んでいるように思う。

 

しかしこれの元祖がビートたけしである事はあまり(まったく?)知られていない。

俺が知る限り1980年からの「THE MANZAI」から「よくいるバカ」という流れでやっていた。

「行列があると、とりあえず並ぶバカ」や「田舎者のありがちな行動」などとツービート流の毒舌スタイル。

客は「いるいる!」「あー!あるある」と実は自分のことであるのも忘れて笑うという。

確か当時の著作「ツービートのわッ毒ガスだ」でも「あなたはこんなバカではない」との括りで収録されていたと思う。

 

肝心なのは殿本人が「あるあるネタは自分が元祖」と自覚しているという事。

なんでそれを俺が知っているかと言えば、本人に聞いた事があるから。

1985年あたりだったか、当時「新人類」などと気勢をあげていた「中森明夫」が週刊誌上でたけしさんにそのネタで噛みついた事があった。

「“跳び箱を跳べないような奴”とかもっと面白い(これ自体ホントつまらなかった...)言い方が出来ないのか」などと「俺の方が面白いことを言える」的な煽りだった。

当時、各局8時台のゴールデンタイムで視聴率トップを記録し「怖いものなし」のビートたけしに噛みつくような人間はいなかったので、この記事はちょっと話題になった。

ボーヤだった自分はその記事を知り、怒りを感じつつ、殿を窺(うかが)っていた。

しかし、一切リアクションをしないどころか、いつもと全く変わりがない姿に「もしかして記事のことを知らないのでは?」と思い、直接聞いた。

「記事の事はご存じですか?」「反論しないんですか?」と。

曰く「ああ、読んだ読んだ。あいつ、そもそも俺が創ったネタのスタイル上でゴチャゴチャ言ってるだけだって事に気付いてない。ほっとけばいい」

との「まるで意に介してない」といった感じのそっけない返事だった。

以前Twitter でも書いたが、お笑いタレントがたまに使う「と、言うわけで」からはじまるMCは元々「どんなワケなんだよ!」とツッコミが入る前提でビートたけしが考えたもの。

にも関わらず、そんな背景も知らないし「どんなワケなんだよ!」とのツッコミが入らなければ本来成立しない事さえも気付かないまま、ましてやその元祖がビートたけしである事さえ知らぬまま現在までに一般化してしまっているのと同じように、

ラジオのパーソナリティやとんねるずをはじめとした後の世代のお笑いタレントのネタとして「無意識のうちに」それを模倣し「あるあるネタ」として現在に至っている。

つまりそこまでビートたけしがバラエティで築いた「文化」が多大な影響を与え続けている証左だろう。

本人も最近は現在の「バラエティ番組」のスタイルの多くは自分が創ったと語っている。

しかし今回の件は、俺が当時聞いたから俺にはそう答えたが、それ以後そんな事を本人は公の場では言った事はない。

多分それは江戸っ子の気風から無粋で下品な行為と考えているのかもしれない。

でも俺は言っておくべきだろうと思い今回記した。

 

 

「龍三と七人の子分たち」と「忘れられぬ人々」

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「龍三と七人の子分たち」は結局仕事が忙しく見逃した。

ただしメディアで大体のあらすじは確認した。

ところでこの映画のあらすじを聞いて、昔見た映画と重なった。それは篠崎誠監督作品の「忘れられぬ人々」(2001年公開)。

movie.walkerplus.com

Dollsにも出演した三橋達也さんが偶然にも出演している。

Dollsはこの映画の次の出演作品だ)

似てると言うのは、昔威勢の良かった男どもが、ひょんな事から、晩年に弱者を狙う「許しがたい悪」と出会い、昔の仲間を結集させて派手に暴れるーーという筋書きの部分だ。

この「忘れられぬ人々」では元帝国軍人が、他の高齢者を食い物にする詐欺商法を手がける「巨悪」に憤り「昔取った杵柄」よろしく軍人の精神で斬り込んで行く。

忘れられぬ人々」はごくシリアスな映画だが、似たようなエピソードで北野武が制作するとこうも変わるのかとも思うが、「笑い」は歴史上、常に「絶望」と表裏一体でもあるので、この2作品、案外「メッセージ」は通底しているのかもしれない。