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希土色の刻

KidocolorOhmichi's Reminiscences

巨星墜つ〜春花直樹(春一番)に捧ぐ〜

春一番が、7月3日未明、就寝中に肝硬変で亡くなった。47才だった。

 昔から酒が好きだった彼は、飲み過ぎがたたり腎不全で入院。そこからすい臓、肝臓、腎臓と内臓を全部痛め、それが原因で体重が激減。ニュースによると最近骨粗しょう症にもかかっており満身創痍だった。

ニュース欄の訃報に目を留めた俺は「ついにこの日が来たか」と受け留める他なかった。

近しい人間と交わす彼についての話題はここ数年「もう難しいかも」といったものだったし、既に大きなヤマを何度も越えて来たような彼だったから、覚悟を決めていたのはきっと自分だけではなかったろう。

直ちに連絡したある友人は「あらーマジー!いつ?」といった短い調子で、覚悟を感じさせるものだった。

しかし俺もどこかでは「何とか乗り越えてくれるだろう」と願ってもいた。

そして私の胸には、夢であったかと思うようなヒリヒリとした、しかし温かく心地良い記憶が去来したのだった。

 

ーー彼とはほんの数年、実に濃密な時間を過ごした時期があった。

  春一番は、片岡つるはし、江戸一に次ぐ(と言っても先の二人は遁走)三番目の片岡鶴太郎さんの弟子だ。ボーヤでは水島新太郎や俺、あとはジミー大西さんがほぼ同期。

17才で入門。とはいえそれまで天津甘栗の売り子だったと言っていたから、高校は卒業していなかったのかもしれない。

初めて会った時に「尊敬する芸人は明石家さんまさん。世界一尊敬している人物はアントニオ猪木」と語る変わった(普通は師匠の名をだすだろ)奴で、そのためか自分の師を「鶴ちゃん」と呼んでいた。

当時河田町だったフジテレビ。オレたちひょうきん族収録スタジオの通路では、すれ違う度にボーヤ同士の苦労や悲哀を共有し励ましあっていた。

特に1986年末から年始にかけてお笑いタレントは空前の忙しさ。連日睡眠が取れないほどで、それぞれボーヤはよろよろと廊下を蛇行し、体力の限界と闘いながら歩いていた。そんな、最も苦しかった時代の俺の記憶の片隅にいつも彼はいた。

同じ東京の著名な芸人が師匠で事務所も同じ太田プロ。他の弟子連中より必然的に接点は多かった。そのうち踏み込んだ話をするようになった。

当時彼は本当に友達がおらず。次第に何かと俺につきまとうようになり「大道さんはいつもどこで呑んでるんすか?」としつこく聞いてくるようになった。

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この頃俺は自我が強くなっており、軍団とさえ遊びに行かず、自分で独自に交友関係を広めていた時期だった。そんな所に今更芸人を混ぜたくないとも考えた。

どうにか誤魔化して逃げようとしたが、半ば尾行され観念して連れて行ったのが当時、原宿ロッテリア裏にあったロンドン・ドリーミングという店。

当時のA STORE ROBOTより硬派で通好みのロンドンファッションを扱う店で、毎日閉店時間が近づくとアパレル関係者、ミュージシャン、モデルなどが次第に集まりここの“名物アニキ”(店長)に率いられ、飲みやクラブに向かうのだ。

この頃はバブルの余韻がまだ充分残っており、面白い店も多く楽しかった。

当時俺はアパレル業界や音楽関係に知人が多くそんな彼らといつも遊んでいた。

彼も俺も概ね好む服装は近かったので、この店なら合うだろうとも思った。

しかし春一番を紹介するのは本音では嫌だった。彼の20才にして酒癖の悪さを方方から漏れ聞いており「何をしでかすかわからない」と心配だった。

しかしそれは杞憂で、もともと人懐っこくピュアで裏表のない、サービス精神旺盛な性格、酒の飲みっぷりは見事で徹底しているので皆とすぐに打ち解けた。特に年上から可愛がられた。

ちなみに向こうは俺を「大道さん」と呼び(飲んで盛り上がると“キドカラー”と呼び捨てになる)俺は「春花(はるはな)」と呼んでいた。

ただし、彼も芸人。女に手が早い点では時折俺もトラブルに巻き込まれ、何度か間に挟まれ大変な目に遭った。相手に彼氏がいようが関係ないところがあった。

夜中に酔った彼から調子っぱずれな声で「大道さん〜新しい彼女ができたんです〜」と電話が入る。経緯を聞いた上で説教する事も一度や二度ではなかった。

その度に「大道さん、怒ってるんですか」とショックを受けているのが、なんとも言えず

ここもピュアと言えばピュアな彼の一面だったのかもしれない。

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このロンドン・ドリーミングは顧客にミュージシャンはもちろん、モデルやスタイリストの出入りも多く、そんな彼らと春一番はすぐに打ち解け、交友関係を広げて行った。

そこには憂歌団の花岡さん、前田日明、後にニューロティカに加入する大澤ナボ等もいた。実は俺の最初の相棒もここのスタッフだった。

大澤とは同い年と言う事もあり気が合ったのか、つい最近まで付き合いがあったようだ。

俺は次第に行かなくなったが、春一番オールナイト・フジ第二部やドラマの端役とはいえレギュラー番組をボツボツもらえるようになり、衣装を借りる意味でもこの店と付き合いを続けていた。

1987-1989年は殆ど毎日彼と一緒にいた印象だ。だからこの頃のエピソードには事欠かない。とは言え、ここで全部を書くとキリがない。

行動を共にするようになった当時、彼は同棲していたタレントの彼女と別れたばかりで、新居を笹塚に見つけたのだが、彼の当時の月給は10万行かない程度、しかしそのマンションは15万の家賃だった。

驚いて尋ねると「仕事をどんどん増やして払える生活にします!」と言うではないか。しかも貯金はほぼゼロ。1ヶ月で仕事が増えるはずもなし、20歳頃の“若気の至り”であろうが、あれから彼は果たしてどうそれをやりくりしたのか。

また彼はそれまで付き合った人間のせいなのか、妙な芸ばかりを持ち「フクロ酒(想像に任せる)」や全裸になって仰向けになり体を半分に折り、ケツの穴周辺のくぼみにつけダレを流し入れ、もりそばを取ってケツにつけてから食べる芸。

あとはアニマル浜口の奥さんが経営する浅草のちゃんこ屋に出入り禁止だった理由が「水芸(想像に任せる)ばかりやるから」であった。

まあ要するに泥酔した挙句シモ芸ばかりをやっていたのだ。

しかもそれを頼まれてもいないのに、サービス精神でやろうとするのだから困る。

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振り返れば既に一種のアルコール依存症だったのかもしれないが、決して暴れたり他人を巻き込んで嫌な事をする訳ではない。ただし一緒に来た仲間も店から同類のように見られる迷惑はあるーーといった調子。

太田プロも一応にせよ仕事を探して来て、春一番がボーヤから独り立ちせんとするこの頃、20代は皆似たものかもしれないが、無闇な自信が身を包み、夢や可能性が無限に感じられる毎日。友達も増えて行き、振り返れば彼が最も楽しかった時期だったのかもしれない。

彼はたけし軍団と違い、師匠の過度な影響力に振り回されることもなく、煩わしい上下関係に悩まされることもなく、実にのびのびやっていた。

逆に徒弟の世界を選んだ意味があった(学べるものがあったのか)かどうかは実に怪しいとは思う。但し当時はNSCも大阪のみでお笑いを志望するなら師事が間違いない時代だった。

この頃は自分も「たけし軍団活動」から卒業した時期で、身辺はバタバタしていた。

むしろそんな「節目」の時期だったからこそ、この頃は記憶に強く残っているのかもしれない。

あれは1989年前後だったと思うが「“ビートたけしお笑いウルトラクイズ”に出演が決まりました!」と喜んで電話を入れてきたものだ。

彼は以前から殿のファンでもあり「一緒に番組出られないですかね?」と願っていたのだ。

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何かこの頃には「いい流れ」に乗ってきた感があった。

 ーーしかしそこはやはり春一番。順風満帆で進むハズはない。

もともとアントニオ猪木のモノマネは主軸にするつもりはなく「自分は何でも出来る」と信じきっていた彼も「何か具体的に自信のあるもの」と言えば当時はそれしかなく「営業」や依頼はわかりやすく、メジャーどころではとんねるず石橋貴明以来、他のタレントがこの時期誰もやってない「穴場芸」であった猪木のモノマネに偏っていった。

これはもっと後の話だが、とある学園祭の仕事で女子学生から花束を受け取り演出があり、プロレスラーのマネでその子を抱きしめる対応をした。

場内は理解し大受けだったが、それを見ていたオールドミスの女教師が「レイプ行為」かのような過剰な騒ぎたてをした。するとそれまでの酒が起因のトラブルもあり、結局太田プロを解雇されてしまう。

そこから他の事務所へ移り、はたまた自分で事務所を作るなど慌ただしくなったが、芸はアントニオ猪木一筋!と言いたいところだが、前出の大澤の元には「ドラムの叩き方を教えて欲しい」と連絡があったともいうので、あるいは芸の幅をつけようとあれこれ模索をしていたのかもしれない。

ーー思えば彼には、今ではすっかり絶滅してしまった「破滅型芸人」の色があった。酒に振り回されているような、近い印象は芸人ではないが中島らもさん。

「酒を語る」ように無頼的ではないのだが、ともかく「酒に身を委ねているのが一番幸せ」に見えた。というか常に没入したがっていた。

但し俺個人も当時酒を飲まない芸人は好きではないし信用が出来なかった。今でも正体が無くなるほど呑む飲みっぷりこそは最大に相手を信用している証と思っている。

昼間に電話を架け、話をしていても、いつの間にか通話口の向こうでグラスに氷が当たる音がするほど酒が好きだった春一番。能く言えばイノセントな存在。

電話を受けた時の返答は決まって「もしもし」ではなく「ちんぽちんぽ」だった。

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はじめの頃は正直俺は彼を、邪険にしていた。

特にボーヤを後輩に譲ってからはヒマらしく、毎日連絡が入って「どこか行きませんか」と催促される。こっちは他に友人も彼女もいるので断ると「友達に俺を紹介して下さい」と食い下がる。こちらのプライベートもへったくれもなかった。

ただし自分のプライベートは俺に対しては本当に何でも隠さず話してくれた。

夜は夜で、彼からの電話は決まって酒が入った長電話だった「小沢なつきがどれほど魅力的か」を一方的に延々と1時間以上話された事もあった。こちらがさすがに強引に切ろうとすると「どっか行くんですか、どこですか」「明日は何をやってますか」とやはり切羽詰まったように食い下がる。まるで電話を切られる事に恐怖を感じているのかのようだった。

ーーしかしその電話ももう来る事はない。

 

結局俺が海外を行き来する生活になるに任せ、彼とはそのまま疎遠になり、やがて時折用事があるときだけ連絡を取り合う関係になった。

実際、最後に会ったのは11年前だった。そして友達が増えるに従い長電話の被害者も分散された様子だった。

 

 ーー俺によく云っていた言葉は「鶴ちゃん(片岡鶴太郎)が死んでも泣かないが猪木さんが死んだら一緒に死ぬ」だった。

そんな彼は結局、猪木さんより先に亡くなった。

訃報に際してアントニオ猪木さんからもコメントが寄せられている

 

先ほど共通の知人と話していてそいつはこう言った。

「好きな酒を最後まで飲んで、猪木さんに最後の言葉までもらって、きっと幸せに死ねたんじゃないか」と。

ーーそれに関して俺には何とも言えないが、あの当時の記憶を共有した人間が1人いなくなる事は堪らなく寂しい。

人は喪(うしな)ってはじめてその人物がどれほど自分の中を占めていたかを知るのかもしれない。

今もヤツの声はしっかりと耳朶に残り、いつだって思い出せる。

春花。ともかく今はゆっくり休んでくれ。そしてまたどこかで会いたいなーー

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 R.I.P               Naoki Haruhana 2014.7.3