希土色の刻

KidocolorOhmichi's Reminiscences

たけし軍団発“幻”のアイドル“トリオ”

1985年の年明け早々、殿へ水島新司先生から相談があった。

「ウチの長男(新太郎)が今年高校卒業で、役者の勉強をしたいと言っている。たけしさん、どこかいいところ(劇団や養成所)知らないですか」というものだった。

それに対し「だったら、劇団じゃないですが、よかったらウチで預かりますよ」と返した。

そんな経緯で新太郎は軍団に加わる事になった。

彼は“左腕の剛速球投手”の夢を水島先生に託され、幼少時から左利きで育てられた。

しかし高校入学までは順調だったかに見えたが、子細はさておき、既に彼は野球を辞めてしまっていた。

それでも堀越という校風故か彼は芸能界を志向していた。

状況は1984年末から自分、大阪百万円と、その前から宙ぶらりんな存在であった吉武、出戻りの古田とまとまった人数が揃いはじめていた頃。

まもなく談かんを通じて

「新太郎が軍団に加わる事になった。しかし言っておくがオマエらとは身分が違うからな」

と言い渡された。

このように“一言気に障ることを言う”のが彼のクセだ。

預かり先は西新宿の『ゆたか荘』から中野坂上『小林荘』に移転したばかりの談かん宅。その時点で次の住まいを決めあぐねているユーレイと大阪百万円。そして俺がいた。

この3人は『ゆたか荘』からの居候。この時代は『小林荘』の最盛期だった。

(のちに部屋を決めたユーレイが先に出、春には殿の指示で、大阪、大道は東宅へ移転、新太郎だけが小林荘に残った)

5人が同居していた『小林荘』はさながら合宿所で、今振り返ってもこの頃が一番楽しかった。我々も「この先はなんとかなるだろう」と若さ故の無根拠な自信もあった。

談かんは木造のアパートが好きで、この『小林荘』も古い建物だった。ほどなくファンにもバレるのだが、そんな「ユルさ」も半ば楽しんでいるところがあった。

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さて、この時期は振り返ると『ビートたけしバラエティ黄金期』のはじまりで、スケジュールは殺人的に過密。

江戸っ子の気風で威勢のいいことを水島先生へ言ったものの、現実的には殿本人も新太郎の事を考える暇(いとま)などない。

そのため一旦太田プロに託し、方向性として“お笑いではなく役者へ繋がる道筋”へと模索に入った。

この頃はとんねるずがフジテレビの『オールナイトフジ』を根城にブレイクしはじめた頃で、業界では彼らの“二匹目のドジョウ”狙いで“ちょっと口が達者で見映えのするコンビ”を大手プロダクションが急造し推す動きが流行った。

中山秀征がいた『ABブラザース』などもそうだった。

そんな業界のトレンドはいかにも軽く、完全なる“ビジネス”視点でありお笑いを“甘く見ている”としか思えないもの。

当然殿は「あんな風にはさせない」と考えていたようだった。

しかし検討の末結局は「マスクもいいし、とりあえずアイドルをやらせよう」となった。

今思えば当時の殿はチャレンジ精神旺盛ーーといえば聞こえがいいが「オレがやればなんでも成功する」と信じ切っており、確かに自己の守備範囲ではそこから“自分の時代”を築き、大成功するわけだが、俺個人の感覚としても『浅草芸人』に“アイドルのプロデュース”はさすがに埒外な感は否めなかった。

プランニングは春以降も続き、まず草野球で新太郎が助っ人でいつも声をかけていた堀越の同期(当時東芝府中野球部)長嶋に白羽の矢が立った。

彼は特別にマスクが良いわけでもない。今思えば“安直”と思う。

殿は「野球をやらせると性格が分かる」と日頃から言っていたから、あるいは長嶋の人物を草野球で接する中でそれなりに掴んでいたのかもしれない。

「おい。あの長嶋って奴今度呼んでこい」

と呼びつけ

「新太郎とアイドルをやらないか」

ともちかけたのだった。

それと同時にたけし軍団以外に増えてしまった“セピア”の事もあれこれ日常から考えていたようで、顔が“素”でお笑いにしては中途半端、では“男前”かと言えばそうでもなく「多分お笑いは無理だろう」と思われていた(と思う)俺に「トリオの3人目のメンバーならギリギリいいだろ」と考えたかどうかは定かではないが、日テレの楽屋で声を掛けてきた。

「大道。新太郎と長嶋と一緒にアイドルやれ。明日から一緒に行動しろ」と命令が下った。

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 当時は“殿の言葉は絶対”で、俺もボーヤをやる以前で、普段話をする機会もなかった。だから緊張を伴って「ハイッ!」と元気よく思考することなく返事をした。するしかなかった。

その日から3人は仮称で『おぼっちゃま隊』と呼ばれた。この当時『トリオ』と言えば『少年隊』だった事から自然とそうなった。

ーーさっそく翌日から青山のビクタースタジオに通いボイストレーニングに励んだ。

だが3日も経った頃、徐々に耐えられなくなった。

勧められるまま美容室で“それ風”な髪型にしてみたり、太田プロ事務所に呼ばれ、デビュー用コスチュームの試作品の採寸とチェックをしたり、それなりに準備は進んでいた。

ーー俺はお笑いの勉強をしに入門したのであって“なんでも良いからTVに出たい人間”とは違う。“ビートたけしのそばにいたい”わけでも、当然“たけし軍団に入りたい”わけでもない。

ハナから「自分で漫才を組んでそのうちここを出よう」と計画を決めていたのだ。それだから今回の流れに対する違和感が凄まじかった。

 

そんなある日、ファンレターを取りに太田プロへ行った際、居合わせた磯野勉社長へ不安な胸の内を吐露した。

社長は普段から何かと俺に気遣ってくれる方で、自分も慕っていた。なんでも話せる空気をいつもつくってくれる人だ。

穏やかな笑みを浮かべながら

「そうか大道君は不安か」

と頷きつつ話を聞いてくれた。そこへ副社長が会話に加わり

「大道。でもお笑いは本当に難しいよ」

と厳しい口調で言った。

太田プロは1960年前半に設立され、ホリプロナベプロら大手より数年遅れたものの、落語、伝統芸能以外の演芸系事務所としては20年の歴史がある。そこからの経験なのだろう。その言葉には深さと重みがあった。

意を汲めば「どうせお笑いでは成功など望めない。せっかく機会をもらったのなら、やるだけやってみなさい」と聞こえた。

これはのちに猿岩石をお笑いよりアイドルの方向性で売った方針と一貫している。

とはいえ、それからも、今から思えば二週間程度の事だったが、新太郎と長嶋はそれなりに心を決めてレッスンに励んでいた傍で、いよいよ迷いながら関わる俺は心苦しくなった。そして限界に達した。

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こうなると相談する相手はラッシャー板前しかいない。

いまでも俺にとって本当の意味で“兄さん”と呼べる存在。幸い当時は同じ『四谷サンハイツ』の3Fと2Fの関係で、じっさい一番身近な存在でもあった。

物事を常に真剣に考えており、軍団では“まれ”な人物だ。しかも男気がある。

 

「そうか。実は俺も心配していたんだ。大道はどう考えてるんだろうってね」

2Fの部屋で、相談に訪れた俺の話を聞き、咥えていたタバコを灰皿でもみ消しながら、しみじみと言った。

それはつまり、俺が加わる事にやはり傍からみても“無理”を感じていたのだろう。

そして、

「大道。だったら、殿にそれを直接言ったほうがいいぞ」

と言われた。

俺は少なからず驚いた。ボーヤでもなかった当時、殿にそんなことを直接言えるなどと考えた事もなかった。

この当時は完全に俺にとってありふれた表現ながら『雲の上の人』

普通に話が出来る対象とも考えていなかった。今回の事も『絶対命令』と思い込んでいた。

具体的に「どうしたら良いか」を問うと、当たり前のように「電話を入れた上で訪ねろ」といい、なおも戸惑う俺に“安心しろ”とばかりに相好を崩しながら

「殿はそういう話はちゃんと聞いてくれる方だよ」

とも付け加えた。

オフの日、在宅の時間帯に、意を決したものの、まだ迷いの残る指で電話を架ける。

「そうか、来いよ」

とあっけない返事。

急いで腰を上げ、小雨が降る中、『パレ・エテルネル』を訪ね、2人きりで向き合う初めての体験に、経験したことのない緊張が全身を包む。

ノックをし、リビングに入る。部屋には当時好んでいた男性用香水“アラミス”の香りがかすかに漂っている。そして顔を上げると目の前にはあの『ビートたけし』がいる。

本当に当時はまだそんな『距離感』だった。

部屋に入ると、床にあぐらをかいて座っていた。

神経質そうに、TV同様に目を瞬き首をカクカクさせつつ、時折りまぶしそうに目を細めタバコをくゆらせている。そしてぶっきらぼうに

「話ってなんだい」

と言葉を投げた。

促されるまま、ここ数日の心情と自身の考えを全て話した。

ひと呼吸間があいた。

新たなタバコを一本手に取り、逆さにし、とんとんとタバコの箱を叩き、火を点け、ひとふかし、煙をため息のように吐いてから口を開いた。

「誰かに相談したか?」

恐らく俺あたりの人間が直接電話して来る流れに何か察するものがあったのだろう。

「ラッシャーさんにしました」

「で、ラッシャーはなんて言った?」

「ハイ、殿は自分の考えを話せばしっかり聞いてくれる方だと」

「ふ、何を言ってやがる」

そういって「あいつ。生意気に」とでも言いたげに口元をほころばせた表情には、ラッシャー板前と殿との軽くない信頼関係が透けて見えた。

そしてやや思案があり、口を開いた。

「そうか。でもあれだな、オマエが自分から“抜けたい”と言ったと知ったら、あとの2人は気分が悪いだろう。オマエらの人間関係もあるだろうから、おれがうまくそこは言っとくからな」

ーー拍子抜けした。

“お前は何様だ”

“俺に言われた事が出来ないのか”

“どういう勘違いをしてるんだ?”

などと、厳しい言葉があるかと思っていたし、あるいは

“そうか、じゃあ今日で(俺の所は)やめていいぞ”

などと言われる覚悟もしていた。

ラッシャー板前から、ああは言われていたものの、ビートたけしという人物はそんな、アッサリと冷酷な言葉で手を下しかねない、残酷な気配も同時に漂わせていた。こういった面は傍にいなければなかなか感じられるものではないが。

だが、予期していた“厳しい言葉”も、結局それは“相手にしてくれている”次元であって、当時の自分などは切った方が早い程度の存在だったはずだ。

ともあれ、場を辞し翌日、TV局の楽屋で軍団全員が揃う前で「大道がおぼっちゃま隊から外れる」旨、殿から発表があった。

そこでは

「大道は性格が暗いからアイドルに向かない」

などと、あくまで「殿の判断で外した」事を強調していた。

自分はその配慮にひたすら申し訳のない心持ちだった。

その後、殿はユーレイを代わりに入れてみるなど試行錯誤をしたが、結局正式名称を『おぼっちゃま』とし、デュオの形でデビューさせる事になった。

彼らはシングル4枚までリリースをしたが、事務所がオフィス北野に移行する中で、活動は半ば自然消滅となった。

ともあれ、一時期は『トリオ』のセンで進められていたのだったが、今考えても、どのみち、あらゆる面から、あり得なかったと思う。

だが、自分にとっては二人きりで話をした最初の機会と、後にボーヤ志願へ繋がる『ビートたけしの体温』を直接感じる事が出来た、忘れ得ぬ場面だったのだ。