希土色の刻

KidocolorOhmichi's Reminiscences

『たけしの挑戦状』発売30周年に寄せて

歴史的な『クソゲー』として必ずその名が挙がる『たけしの挑戦状』が今年の12月10日で発売30周年を迎えるという。

今回確認するとなんとフライデー事件翌日の発売。こんな事はすっかり忘れていた。

 

このゲームに関してなら、当時ボーヤで最初から最後まで事の成り行きを見ていた。

そこで当時の事を思いだし、つらつらTweetしていたら長くなったので、こちらにまとめて書くことにした。また自分で一旦整理しておきたい気持ちもある。

 発端は「最近グレート義太夫ファミコンに夢中になっている」と聞いた新し物好きの殿が、「そんなにおもしろいのか」とばかりに、ファミコン本体とそのタイトル『ポートピア殺人事件』を用意させた。

四谷四丁目サンミュージック裏のマンションパレエテルネル住まいの頃だ。

義太夫から簡単に説明を受けながらゲームをはじめた殿は、やがて義太夫を質問攻めにしながらのめり込んで行った。連日、仕事を終えるや直ぐさま帰宅しゲームをやっている、という具合に。

ただし今から思えば「のめり込んでいる」と言っても1週間程度の話だ。

そしてゲームを進めるそばから「こういうのはどうだ?」「ここがこうなら面白いな?」とゲームをしながらアイディアが次々と浮かんできている様子で、ネタ帳であるノートにもそれらを書き留めていた。

やがて殿は「面白いゲームが出来そうだ。どこかで作ってくれないかな」と言い出すようになっていた。

当時の殿は、次々に頭に浮かぶアイディアを片っ端から形にしたがるほどエネルギッシュだった。

そこへほどなく『北の屋』でゲーム会社との顔合わせの場がセッティングされた。

ーー今回、当時の事を自分なりに調べた。自分も誤解していた部分かもしれないが、そもそも太田プロが当時、ゲーム会社にコネクションがあったかと言えば実に疑わしい。それまでゲーム関連の実績など皆無だったのだから。

今まですっかり、殿の意を汲んで太田プロがアレンジしたと思い込んでいたが、実際は元々タイトーからゲーム企画の話が太田プロに持ちかけられており、そこへ殿も「ゲームを作りたい」意向が菊池さんに寄せられ「渡りに船」とばかりに、かなり乱暴ながら場を持ったのかも知れない。

太田プロとしては結論、ビートたけしのゲームが発売されれば良いだけの話だったろう。

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問題があったとすると、タイトーはキャラクターと名前だけを借りるつもりで、ゲームの企画は既に用意していた。しかし殿は殿で自身の企画があり、双方の目論見は全く別だった事だ。

ちなみに当時、アイドルの名を冠したゲームタイトルは少数ながら存在していたが、タレント系の本格的なRPGはなかった。

北の屋の座敷に集った面々は、スーツを着た幹部と思しき社員が5、6人と、そんな彼らと明らかに毛色が違い、カジュアルな制作側のメンバー2、3名の総勢10人程度と、正直多すぎる印象。

名刺を受け取ったが前者が「タイトー」で、後者が「セタ」とあった。

事前には「タイトー」と聞いていたので「“セガ”なら知ってるけど“セタ”?」と思い、そのせいで今日までその名を記憶していた。

自分の目からはスーツのメンバーは「せっかくあのビートたけしに会えるのだから」と半ば立場を利用して好奇心から来てしまったように見えた。

顔を合わせ、挨拶もそこそこに猛烈な殿のプレゼン兼独演会が始まり、スーツの面々はまるで話について来られず、きょとんとしていた。

しかしただ一人だけ身を乗りだし、殿と丁々発止とばかりに「じゃこう言うことですか」と立て板に水の如く提案もしつつ向き合う制作側の人物がいた。

恐らく「セタ」のディレクターだと思うが、カジュアル系のスーツにティアドロップ・フレームのメガネと強めのパーマヘア。風貌は当時での典型的なクリエーターのそれだった。

ともかく反応がよく、感覚も良いのだろう、時折投げかけられる殿の冗談もキッチリ受け止めて笑っていた。

或いは殿のプレゼンに魅せられ、感応し引き込まれていたのかもしれない。

プロといえば中には「ゲームを分かってませんね」とばかりにシロウト扱いの姿勢を滲ませる者もいるが、彼は「なるべく希望を形にしよう」とばかりに大きく頷きながら、時折再確認をしつつ、真摯に耳を傾けてくれている。

彼がただ者ではないことは、傍からみてもよくわかった。殿の常識を超えた企画案とそのユニークさを完全に理解出来ていると思しきはこの人物だけだった。周囲の様子との落差からもそれが一層際立っていた。

今思えば彼はいったい何者だったのか?

調べると福津という人物がこのゲームの正式なディレクターであるが、彼に関して残されたテキストを確認する限り、北の屋の場にいたことだけは間違いないが、自分の人物像と完全一致するとは言い切れない。

なぜなら福津から「セタ」の経歴が確認できない。

ゲーム制作なので、フリーの外部スタッフも臨席していたのかも知れないから、名刺を受けていないだけで、福津氏は当時フリーの立場で臨席していた可能性もある。それにディレクターでもなければあの場であれだけ前面にも出られまい。

こう考えるとやはり、可能性は最も高い。ただし現時点では同一人物とまで断言はできない。

また、自分の憶測だが、タイトーの幹部社員がきょとんとしていた理由は、殿の勢いとは別にやはり、自社企画の話と、ビートたけし本人からも考えがある事を、太田プロ側からしっかりと趣旨説明がなされていなかったせいで、この流れにひたすらに戸惑っていたのではないか。

ーー結局、北の屋が最初の企画会議と言える場となり、その後は恐らくはそのディレクターが中心となり、殿から出された構想をまとめたものが一旦企画の「タタキ」となって、そこから殿と細部の詰めに入った。たしか最初は一度ホテルで場を設けた筈だ。

以後、確認の場の殆どは殿が多忙なゆえ、テレビ局の控え室となり、やがて具体的にゲームにまとまったものが出てきた。その際には一般的なファミコンとは見てくれの違う開発専用機(だと思う)が持ち込まれた。

そこでは殿にゲームを試してもらったり、キャラクターの挙動と絵の調子や色合い、文字の入れ方と音楽の雰囲気、展開のタイミングなどをチェックしていた。

殿には作品における画(え)とイメージがしっかり決まっているようだった。

横で聞いていると、普段は相手を「大変だろう」と慮(おもんばか)り「それでいいよ」となりそうな部分も、さすがに「自分の作品」との意識が強いせいか、時折図に書いて説明するなど、希望をしっかり具体的に伝え、正確性にこだわっていた。

また、ファミコン本体の機能にも興味を持ち、コントローラにマイクがあるのを見つけると「これゲームの中で使えるの?」と確認し「じゃあ、本当は意味はないんだけど、もっともらしく歌を歌わせてさ、くっだらねー!」と、ユーザーがまんまと騙されコントローラーで歌う姿を想像し一人で笑いこけたり、ともかく「意味性」など無視し「くだらなくて不条理」という一貫性でダンジョンを次々に設定していった。

ーーこれらから分かるとおり、少なくとも「監修」などと言う関わり方ではなかった。控えめに言っても『企画構成』だろうか。

そしてゲームのCM撮影の段階でもスタジオ控え室でα版のチェックはまだ続いていた。

この場にも例のディレクターは立ち会っていた。この人物に感心したのは、他の良くいるタイプのように必要以上に殿に近づくことが無かった点だ。

控え室に顔を出し、あざとく挨拶に来ることもない。

タレントとしてのビートたけしにはさほど興味がなく、その本人が構想するゲームの完成にだけひたすら没頭していた真のプロフェッショナルだったのだろう。

CM撮影の頃にはほぼ一区切りついたせいか、ふと見るとスタジオの片隅でスタッフと談笑しながら、今回の仕事に大きな満足を得たような笑顔を見せていた。

一方、控え室での殿も成し遂げた仕事に対して満足げな様子で、終始いつになくリラックスし笑顔だった。

ーー30年経った今『たけしの挑戦状』を振り返るとまず「あのディレクターが造ってくれた」との思いが胸に去来する。

殿の意図をしっかり理解し、それを余す所なくゲームに落とし込んでくれた。

もし、このディレクターに「北の屋」で出会わなければ『たけしの挑戦状』は完成しなかったか、少なくとも形は別のものになったであろう。

その意味ではここでもやはり殿は「人」に恵まれたのだと思う。

 『たけしの挑戦状』が発売されると殿は一定の達成感からか、以降ファミコンには全く興味がなくなり、触ることさえなくなった。

製品となった『たけしの挑戦状』も確か自身では一度もプレイしていないはずだ。

そもそも『ポートピア殺人事件』でさえ、結局最後まではやっていない。

飽きやすい性格でもあるが、そういえば他の仕事も、一度やり遂げてしまうと一切振り返ることはせず、すぐさま次に進んでしまう人であった。

ーーその後、軍団活動を離れ10年後ぐらいに、業界では有名なCAD/CAM企業と仕事をする機会があって、そこでは自分の背景を知る人物がいたせいか「“たけしの挑戦状”をディレクションした人間が社にいる」と名前だけ伺い「近いうちに会わせます」と言われたまま、その機会も結局訪れず、やがてこちらも名前を失念してしまった。

CAD/CAM業界とゲーム制作の世界は別物ではない。『たけしの挑戦状』発売後にゲーム業界を離れたキーマンがその時そこに在籍していたのかもしれない。

この人物こそが「あのディレクターだったのかもしれない」との思いがなくはないが、本日までこの確認が取れないままだ。もっとも福津浩氏に会えばそれもすべて分かるのだろうと思う。

現在「クソゲー」として誰もが知るほど記憶に残る『たけしの挑戦状』はAmazonでも中古ソフト市場でも、売れた数が数(公称80万本)だっただけにプレミアどころか数百円だ。

しかしこのありようが、ビートたけし的には何か最高の栄誉に思えてしまうのだ。

 

たけしの挑戦状

たけしの挑戦状

 

 

ポートピア連続殺人事件

ポートピア連続殺人事件