“ジキル菊池門下生”
今回は“ジキル菊池”こと太田プロマネージャー、菊池さんの事を書きたい。
そもそも外部の人間は、殿と菊池さんの関係は分かるが、そこにボーヤが加わった3者の関係については、よくわからないと思う。
まず断っておくが、何らかの形で殿の周辺に潜り込んだ程度では菊池さんに言わせれば「たけし軍団」ではない。
セピアも「たけし軍団セピア」が正式名称だが、菊池さん的には「たけし軍団」ではないらしく「勘違いするな」と再三言われていた。「セピアはタレントではない」という意味だ。
「たけし軍団」とはあくまで10人のメンバーの事を指す。
しかし、殿はその10人の「たけし軍団」をも普段は「ボーヤ」と呼んでいた。
これをどう受け取るか。
自分はこれを「俺に頼らず一本立ちしたらその時に初めて“弟子”と呼ぶ」とのメッセージと受け取っていた。
何事も言葉少なで「察する」事を求める殿は肝心な事柄になるほど、言葉にはしない。
とはいえ、これは自分の憶測に過ぎない。しかし答えは常に“易きに流れぬ”方向にあると信じている。
自身を決して“師匠”と呼ばせない事も同じ理由と思っている。
そこに則るなら“ビートたけし”の名刺でメシを喰ってるうちは“弟子”ではないのだ。
俺から見ても現在まで広義の「たけし軍団」は徒弟の関係ではなく、殿が社長を務める企業の「社員」の関係に見える。
そんな彼らは「ビートたけし」という既得権益のしがらみの中で禄を食む存在だ。
なぜなら“ビートたけし”の背景を取り去って、存在が成り立つ人間は1人も居ないではないか。
所属する事務所も、ほぼ殿のワンマンだし、会社から給料をもらってるクセに好き勝手な文句を言い、俺なら絶対に拘るであろうこう言った「在り方」に無頓着な様子も実に「サラリーマン」然としている。
他の業界でも徒弟の世界にいる者なら、これは充分に理解してもらえるものと思う。
ーーこのような言葉がある
弟子が師匠を越えるという意味である。
お笑いのみならず、今や俳優、画家、映画と幅広く手を染める人なので、容易ではないが、当時、ボーヤを務めるほどにその人間性に惹かれた自分は「早く一本立ちしなければならない」とこの言葉とともに心に銘記したものだ。
だから、一般的には簡単にたけし軍団を“弟子”と呼んでしまうが、厳密にはそう簡単な話ではない。
また、そのまんま東を“一番弟子”と表現する記述を時折目にするが、本来は入門順ではなく「一番優れた弟子」という意味だ。板前の世界での「一番包丁」をとる人物をいう。
最初に入った弟子が辞めてしまえば“一番弟子”がいないおかしな事になってしまうので、厳密にはそういう事で、腕を磨けば誰にでも“一番弟子”を目指す事が出来る。
さて、漫才師に師事するといっても何を学べば良いのか。具体的にこれは実に難しい。
「殿の傍にいればそれだけで勉強になるか」と言えばそんな単純な話ではない。
落語の世界では師匠が稽古をつけてくれるが、漫才に2人でやる「スタイル」はあっても「型」はない。
結局学ぶものは「師匠の仕事に対する姿勢」となり非常に高度。一定の感性を持ち得ない人間は何も学べない事を意味する。
感性の乏しい者は表面上の事しか分からずそれで終わる。
よく東京生まれでもないのに「オイラ」だのと殿の口真似をするメンバーがいるが、あれが最たるものだ。首をカクカクさせるチック症の真似をするアホまでいる。そんな奴は弟子ではなく俺が思うにタダのファンだ。
では具体的で実の伴った「修行」と言えば常に帯同し師の姿勢を学べる「専任ボーヤ」しかないと断言する。
もともと当時悩んでいた俺もラッシャー板前から「専任ボーヤ」を勧められたのだ。
但し、殿が何かを具体的に教えてくれる事などなく、すべて自分次第だ。
何かあっても叱ってくれさえもしない。
それを「仏様の包容力」と表現する者もあるが、なにしろ面倒くさがり屋であるし、おそらく「感じない人間には言った所で理解も出来ないだろう」との理由からではなかったか。
ーー菊池さんは当時のマネージャーだが、そんな殿に代わってボーヤの作法を全て教えてくれた。
本来、マネージャーにとって所属事務所のタレントの弟子の教育などは担当外だったと思う。
果たして、殿から事務所にその旨を頼んだかの経緯は知らない。
菊池さんは太田プロ、磯野勉社長の実弟で、代々太田プロの看板タレントのマネージャーを務めて来た、事務所きってのエース。姓が違うのは事情があるらしい。
「専任ボーヤ」は基本的には殿へタバコを差し出し火を点けたり、飲み物をタイミングよく供するなど、殿の仕事周辺一切を恙なく補助するのが仕事だ。
その代わりにそういった中から様々に芸事に通じる感性や思考を学ぶ事が出来て、大きなメリットがある。
菊池さんはあくまで太田プロの社員であるから、仕事での時間帯は菊池さんが付くが、仕事以外でプライベートの時間帯はボーヤだけになる。
問題はその教え方が非常に荒っぽく、1度教えた事を誤れば手が出る。
そこは徹底して容赦はない。自分もファンが大勢いる前で殴られた事も1度や2度ではない。
最初は本当に困った。何をしてよいかさっぱり分からない。そのうえ連日、怒鳴られ叩かれるだけだ。
しかしある日見かねた菊池さんが助け船を出してくれた。
「お前は本当にどうしようもないね.......まず、自分がどうされたら嬉しいかを考えろ」
その上で「常に先を読んで行動しろ」とも。
これは非常に明快なポイントだった。幸い殿と自分の「どうされたら嬉しいか」の感覚が近かった事も状況を助けた。
そこを糸口に、自分なりに試行錯誤を重ね反応を確認しながら「気の利かせ方」を研ぎ澄ませていった。
それを地道に積み重ね、殿との信頼関係も次第に育まれて行ったと思う。
菊池さんは「バカだなお前は!」とカンカンになって怒るだけではなく、怒りがマックスだと抑揚のない声で「殿が探してるよー、何やってるのー」となり、これがとてつもなく恐ろしい。
菊池さんからの厳しい日々の薫陶に加え、何かと軍団の兄さん達と現場が一緒になるのだが、ただでさえ忙しい中(当時セピア以下はこんな時は完全に自由行動だった)まるで師匠気取りで、自分にあれこれ用事を申しつけて来る。
それも「飲み物を買ってこい」だの「自分で行けよ」と言いたくなるつまらぬ用事ばかり。こちらは殿関連の仕事に分刻みで追われているし、ミスれば怖い菊池さんが黙ってはいない。
当時10人の「たけし軍団」内にはあまり「上下関係」は存在せず「なあなあ」で、セピアが出来てから極端に上下関係を敷くようになっていた。
殿に尽くすのは納得がいくが、これは正直堪らなかった。しかしこう言った「ワガママで、なっちゃいない」先輩に「自分は絶対になるまい」と心底決意した点では意味があった。
ラッシャー板前が何かと俺を気遣い助けてくれて、常に味方となってくれたのは同様の苦労を体験し兄さん達の身勝手をよく識っていて他人事ではなかったからだった。
ーーそんな日常の中で、このような事があった。
立川流一門会で有楽町マリオンに行った。立川錦之助の名で殿も一門だ。当日に出演があり楽屋に入ると、そこは顔を合わせて賑やかにしようとの趣向か、大部屋で周囲には立川流一門の文化人やタレントがいる。もちろん落語家も。
落語家の世界ではその歴史からか、あらゆる礼儀・作法が定まっており、ボーヤに相当する、入門からまだ日の浅い若手は、師匠の世話をするにも常に懐に忍ばせた日本手ぬぐいを駆使し、茶を供する時も、濡れているかは別として、湯飲みの底を拭ってから手渡すなど、全ての所作に形式と様式美のような流れがあった。
そんな光景を陶然と眺めていると後ろから
「大道。気にするな。いつものお前のやり方でやれ」
と厳とした口調で菊池さんに言われた。
また、まだ当時新宿の河田町にフジテレビがあった頃、水曜日が「オレたちひょうきん族 」の収録日で、地階のクロークには局が用意したりタレントが持ち寄った茶や菓子が常に置かれていた。
たまたまその日は殿の大好物である醤油煎餅があった。
スタジオに向かう時、殿はそれに目を留め「大道。あとであの煎餅持って来い」と言いつけられた。
スタジオでリハーサルを眺めていると、たまたまADさんが紙コップにその煎餅を小割りに入れ、他の出演者用に持ち運んでいたのを目にした。
自分もそれを真似、小割にし紙カップに入れた煎餅を殿へ差し出した。
ところがそれを見た菊池さんに後から引っ張られ怒られた。
「お前、ADさんの真似だろ。バカヤロウ!」
怒られる理由もまるで分からない。
それに似たような事は以後も何度かあった。
ともかく様々に荒っぽく「礼儀作法」を教わる中で、「もしかしてこの人は俺を憎いのだろうか」と思い悩んだ。
普段から殿はまず怒る事がない。その代わり菊池さんが異常に怒る。
ほぼ連日悩んだ。
しかも他のメンバーがいる場では、セピアや後輩には優しい。あくまで専任のボーヤである自分にだけ厳しいのだ。
本来は殿に師事し、あくまで菊池さんに師事したのではない。そんなところからも理不尽を感じなくもなかった。
しかしーー「もし本当に俺の事が心底憎いのなら、このような仕打ちになるだろうか」と考えると、そうとは思えない。そこは違うと辻褄からも感覚的にもわかる。
その内に、怒る時にある一定の規則性のようなものを感じるようになった。
そう考えてからそこに「仮説」を立て、検証を重ねる事にした。
そしてそれは次第に確信に変わってゆくのだった。どうも答えが見えてきた。
ボーヤも1年を過ぎた頃だろうか。自分は確信を持って菊池さんに言った。
「菊池さんはボーヤの薫陶を通じて、芸人の考え方やあるべき姿勢を実践的に教えてくれてますよね」
菊池さんはやや驚き俺の目をしばらくじっと見つめたかと思うと、今度は目を逸らし、言葉を選ぶように言った。
「それが分かったならお前はもう卒業だよ」
心なしかその表情にはどこか寂しさの色があった。
“常に物事の先を読んで行動を逆算しろ”
“落語家など、他の世界の作法に安易な影響を受ける事なく身に付いた作法を自信を持って貫け”
“人の安易な真似はしてはいけない。それより自己の個性を重んじろ”
ボーヤの仕事の中で、これらは全て一貫した「芸人としての将来」を志向した上での薫陶だったのだ。
現実的には殿の都合もあり、そこでボーヤは卒業にならなかったが、菊池さんの「狙い」が分かった以上、それ以降は信頼関係が深まるばかりだった。
この菊池さんからの「ボーヤ卒業」を宣言されたのは自分が軍団では初めてだった。菊池さんからの「卒業証書」だ。
ーーしかし最初で最後だった。
事務所がオフィス北野に変わり、菊池さんは担当を離れてしまった。
他のボーヤを務めた先輩達は「卒業」する事なく菊池さんをあるいは憎み「怖く厳しい人」とだけ記憶しモヤモヤしたまま後輩にバトンタッチした事だろう。
「専任ボーヤ」経験者は多くはない。そのまんま東以降、長期間務めたのは自分も含め3名しかいない。
他のメンバーは1ヵ月程度の経験で、当人の話を聞く限りでは深まる事なくごく形式的に終えてしまっている。
俺は殿をして「過去最高のボーヤ」と言わしめたラッシャー板前を常に目標にした。
そのラッシャー板前はやはり「ボーヤの鑑」と呼ばれた松尾伴内を目標にした。
だから、お互い同士にもそういった「専任ボーヤ」にしか持ち得ない体験と価値観を共有している。
他の軍団が理不尽に俺へ用事を申しつける時もこの2人は違って、むしろ気遣ってくれていた。
だから今でも俺は「専任ボーヤ」を務めた歴代の先輩には格別の想いがある。
菊池さんに薫陶を受け、殿の傍に四六時中詰める存在の「専任ボーヤ」時折危険にさらされる場面では殿を体を張り護る存在。
殿に師事すると言っても、現実的には菊池さんが芸人の骨格を創ってくれていたのだ。
今では事務所が変わるに従いそんな在り方もすっかり変わってしまったと聞く。
特に自分の時代は後にも先にもスケジュールが狂気の沙汰だった「バラエティの黄金期」であり、そこからフライデー事件も共に乗り越え、どこか「戦友」といった感覚すらある。
俺はつくづく菊池さんがいた時代に「専任ボーヤ」として「育ててもらった」事に今でも心から感謝している。