希土色の刻

KidocolorOhmichi's Reminiscences

2014-01-01から1年間の記事一覧

巨星墜つ〜春花直樹(春一番)に捧ぐ〜

春一番が、7月3日未明、就寝中に肝硬変で亡くなった。47才だった。 昔から酒が好きだった彼は、飲み過ぎがたたり腎不全で入院。そこからすい臓、肝臓、腎臓と内臓を全部痛め、それが原因で体重が激減。ニュースによると最近骨粗しょう症にもかかっており満身…

亀頭白ノ助がいた景色

殿がセピア以降で増え始めたメンバーを集め“浅草キッドブラザース”と名付け、強制的に浅草行きを命じた中に亀頭白ノ助という男がいた。 当時のメモを読むと「亀頭白ノ助」「エイヘイサイク」「ソークメナオ」ともなっており「どれか選べ」といった状況で殿自…

ビートたけしの“ボーヤ”[Phase1]

結局芸人の道を歩まず、一般人としての生き方を選んだ自分にとって、この時代の出来事で何一つ誇れるものはない。 しかし唯一他の軍団にはない勲章はある。それは当時の太田プロ、鬼の菊池マネージャーからの「ボーヤ卒業」の一言だ。 自分は現在も、過去の…

特殊な「たけし軍団」の構成

今から思えば不思議だった。 たけし軍団(オリジナル10人)は、バンドがベースの「ザ・ドリフターズ」や「ずうとるび」でもないし、事務所が所属タレントをかき集めて作ったコント・グループでもない。 何が不思議かと言えば、プロの芸人と落語家と素人”が混在し…

嗚呼「ビートたけし一門」

「ビートたけし一門」とは言うが、本人の言葉で言えば 「ウチは皆転がり込みで、一門なんてものはない」となり、実際「師匠」とは呼ばせず、本人からは「殿」と呼ぶように当時は言い渡されていた。 草野球で助っ人に来た事からの縁や落語界からの編入。そし…

1984年12月於:有楽町ニッポン放送

去年までは体育の教師になるはずの自分が、その時ニッポン放送の玄関前に立っていた。 正確には道路を隔てた反対側の歩道からその光景を眺めていた。 深夜3時を回ろうとするこの時間に、おそらくはまだ10代と思しき50人ほどの女子達が電車は始発覚悟で「出待…

拝啓 “あの”時代の自分へ

私が1984年12月に、有楽町ニッポン放送で入門を申し出てから早、2014年で30年の歳月が経とうとしている。 当時ビートたけしは37才。漫才から離れ、たけし軍団とともにコントや新たなバラエティの途を模索していた時代。しかし、世間の評価はまだまだだった。…

You Just Haven’t Earned It Yet, Baby

“If we open a quarrel between the past and the present, we shall find we have lost the future” (Sir Winston Leonard Spencer-Churchill)