希土色の刻

KidocolorOhmichi's Reminiscences

特殊な「たけし軍団」の構成

 今から思えば不思議だった。

たけし軍団(オリジナル10人)は、バンドがベースの「ザ・ドリフターズ」や「ずうとるび」でもないし、事務所が所属タレントをかき集めて作ったコント・グループでもない。

何が不思議かと言えば、プロの芸人と落語家と素人”が混在していた事だった。

当初は東、松尾(以降敬称略)から徐々にメンバーが増えた事から「たけし軍団」と括りの名前を付けた事によるいわば最初は「俗称」だった。

草野球の助っ人に来た芸人ーー既に旬の過ぎたようなその彼らに、ビートたけしが声を掛け、また立川談志一門からも師匠に頼み込んで弟子筋であるたけしさんに預けられたのが談かん(ダンカン)と言った具合で「結果的に」過去に例を見ない無茶な構成となった。

しかし、ニッポン放送の出待ち直訴で入門(正式には一門は存在しないので“入門”ではないが)した“素人”とはいえ、『弟子志願』を踏まえて入門したメンバー(東、松尾、柳、ラッシャーの4名)は当初「修行後自力で芸人になる」のが基本線だったはずで、そのために東は漫才を組み、松尾は浅草に修行へ行くなどの模索を続けていた。

f:id:kidocolor:20050501042536j:plain

こんな調子でメンバーが増えた事から「たけし軍団ビートたけしの弟子」と簡単には言えない微妙さもあった。

大森は東に誘われコンビを組んだがぱっとせず、軍団に吸収されただけで、弟子志願をした事実はないし弟子の自覚もない。

タカ、枝豆もコントコンビのまま草野球の助っ人を経て加わり、談かん(ダンカン)は談志師匠に頼み込んで移籍して来た。義太夫は当初弟子入り志願者だったが、はじめはバンドのメンバーからの加入であり特殊だが、この何れも「軍団に加わった」意識はあっても「弟子志願者」ではない。

後に『たけし軍団ビートたけしの弟子』との一般世間の安直な認識のまま今日までずるずると来てしまった。但しビートたけしの言葉を借りて言えば、全員ボーヤであって弟子は1人もいない。

弟子志願を経て軍団に加わったメンバーには「俺の師匠はビートたけしだ」との意識はハッキリとある。そして早いところ軍団から卒業し独り立ちをしなければと考える。

しかし他の「中途採用組」は「たけし軍団でタレントとして食べて行ければいい」と考えていた様子だった。

これがなぜ一応にせよまとまっていたかと言えば「ビートたけしと言う名の重石」があったからで、いわばユーゴスラビアのチトーがビートたけしで、この人がいなくなればユーゴよろしく、即時紛争が発生し、空中分解した事だろう。

元々我の強い芸人、芸人志望者がまとまるはずもなく、そもそも先にいたメンバーからすると、途中から加わり延べのキャリアが長いからと、急に先輩風を吹かされて心中穏やかなはずもない。

そしてそれは折に触れ様々な蹉跌を生んだ。

 

嗚呼「ビートたけし一門」

ビートたけし一門」とは言うが、本人の言葉で言えば

「ウチは皆転がり込みで、一門なんてものはない」となり、実際「師匠」とは呼ばせず、本人からは「殿」と呼ぶように当時は言い渡されていた。

 

草野球で助っ人に来た事からの縁や落語界からの編入。そして直訴組。

直訴組は当初、自力で軍団から抜け出しピン芸人をと志向していた。しかし他の「中途採用組」は「たけし軍団」と言うタレント活動と受け止めていたし、そこから抜け出ようとも考えていなかった。

芸人で勝負を賭ける時期は一般的には精々1度きりで、それは既に終えている。残りのキャリアを、日本で知名度抜群なビートたけしの傍で活躍出来るならこれ以上の事はない。

 

ちなみにとんねるずは、ツーツーレロレロカージナルス同様「お笑いスター誕生」出身で、軍団の草野球に助っ人で出入りしていた。しかし当時の番組プロデューサー、赤尾氏を怒らせ、日本テレビからは締め出しを喰らい、「干されている」状況で先は見えていなかった。

当然殿は軍団に誘ったが、彼らは「もう少し自分達でやってみます」と断りを入れた。その後フジテレビの「オールナイト・フジ」でブレイクする。人生には何度も分岐点がある。長い目で見なければわからないが、全てに意味はある。

とんねるずの場合も新宿御苑の『KON』と言うショーパブに出入りしていた時に常連のフジテレビスタッフに見いだされての『ブレイク』だった。

とは言ってもカージナルスとんねるずになるはずもないしその逆もない。ひとつ言えることは「安直な判断に未来はない」と言う事だろう。とんねるずはそれを示したように思える。

そこを見極めたかのように当時のセピア若手は軍団よりとんねるずを尊敬していた。

f:id:kidocolor:20131017010032j:plain

方や、直訴組は単純に素人だ。突然無闇にテレビに出されても、気の利いた事など出来ないーーというよりも、だからこそ勉強目的で弟子入りを志願して来たのだ。

どう勉強するのかーー実はここがたけし一門最大の問題かつ特殊な所で、まず師匠は日本で最も多忙なタレントである。故に軍団が芸事を教え授かる場面がない。そこで絡みのある番組で、それを同時に行おうとしていた。

いや、正確には「軍団に芸を教えよう」とは考えていなかったと思う、それをそのように本人が言ったとしても私は「それは後付けでしょう」とハッキリ目の前で言える。

殿は単純に“ビートたけしの番組”としてのクオリティに真剣だったに過ぎない。だから容赦もなかった。何かを教えようとしているよりも、余計な事をしでかさないように、リスク管理していた印象だった。

軍団のテレビ出演はすなわちビートたけしとの共演であり、いじられ役でもある。これを受け容れるのみだった。

当然、軍団のあらゆるリアクションは殿への“媚び”となり、それが体に染みついてゆき個性が死んで行く。あくまで“ビートたけし好み”のタレントに狎(な)れて行く。

自分は「このままではまずいな」とこの事態を深刻に受け止めていた。

反対の例で言えば『ダチョウ倶楽部』はそれまでは“やがて自然消滅するであろうタレント”に含まれていたような存在だったが『お笑いウルトラクイズ』でブレイクした。

評価がそれまで低かったが、じっくり独自の路線を歩んでいた“個性の強さ”が『お笑いウルトラクイズ』でビートたけしと絡む事で引き出された実例であり好例だ。

当時軍団は自らの地位がビートたけしによってもたらされている“現実”を頭の片隅で理解はしていても、TVの扱いやギャラから勘違いが生まれていたように私には見えた。

人間は弱い。それは結局30年後の現在まで続いているのだから。

当時口々に兄さん達は「独立」「独立」と言っていたが、次第に「さんざん世話になったのに離れるなど恩を仇で返す事になる」などと言い出し(飛び出して成功するなら師匠へ恩を返す事になるだろう!?)自己の立場を次第におかしな理屈で肯定し出した。

その実態を眺めていた自分は「修行を終えたらここから出なければ自分がダメになる」と決心した。

 

1984年12月於:有楽町ニッポン放送

去年までは体育の教師になるはずの自分が、その時ニッポン放送の玄関前に立っていた。

正確には道路を隔てた反対側の歩道からその光景を眺めていた。

深夜3時を回ろうとするこの時間に、おそらくはまだ10代と思しき50人ほどの女子達が電車は始発覚悟で「出待ち」をしていた。

姦しいそれらのファンへ埋没するかのように、息を殺し思い詰めた表情で立ちすくむ数人、男子の姿が視界に入る。ーー弟子志願者である。

3時の放送が終了するや、玄関口からたけし軍団達がパラパラ姿を現し、そのタイミングに合わせ白いセドリックが玄関前に停車する。

軍団は花道を作り、スムーズにビートたけしが車へ乗り込めるように段取る。

通常ファンは、その「軍団柵」ごしに嬌声とともにプレゼントを渡すなりビートたけしにコミュニケーションを取ろうとする。

「もしも自分に入門の使命があるなら必ず一発で叶うはず」

ーー若年固有の無根拠な確信を胸に自分はその「軍団柵」を超え、車の後部ドアに向かわんとするビートたけしの真正面に立ちはだかった。

f:id:kidocolor:20140119001112j:plain

何と申し出たかは失念している。「弟子にして下さい」も図々しい。おそらくは「お傍で勉強をさせて戴けませんか」程度の、自分なりに最大限神経を使った言葉だったはずだ。

そもそも、弟子志願をするロケーションも考え抜き「弟子志願自体が図々しくはあるが、定番になっている場所の方が迷惑度は少ないであろう」との結論を出していた。

目が合い、少々困った顔をするとやおら談かんを呼ぶ。談かんからは「ボクのアパートに来て下さい」と言われた。

 

ーーともかくその日から、かの、談かんのアパート「ゆたか荘」の住人に加わった。ただしこの頃は極めて不安な毎日だった。

そもそも軍団でさえ「一門」の形もなく皆「転がり込み」のまま『たけし軍団』に形成されただけで、自分も紛れ込めたのかさえも分からない。

初日に「まあ、草野球の球拾いでもしていれば、顔も覚えられるさ」という談かんの言葉を半分信じていただけだった。(今思えば何と優しい事か。その後志願者を問答無用で断り続けた自分とは違う!)

当時はバブル期。ゆたか荘も立ち退きを迫られ、まもなく引っ越しせざるを得ない状況。

「アパートの場所を知られてもどうせ引っ越すから構わない」との考えからか、ファンに住所を公開し堂々と談かんはファンに移転費用を募っていた。

そこで、寄付後のファンを駅まで送るのが自分の役回りだった。

...その頃高校生だったファンの皆さんも現在40才代な訳で、皆さんお元気だろうか。

拝啓 “あの”時代の自分へ

私が1984年12月に、有楽町ニッポン放送で入門を申し出てから早、2014年で30年の歳月が経とうとしている。

当時ビートたけしは37才。漫才から離れ、たけし軍団とともにコントや新たなバラエティの途を模索していた時代。しかし、世間の評価はまだまだだった。

そして翌年の1985年から怒濤のごとく新番組がスタートするや、各局8時台すべてを視聴率トップで制覇するという、まさに「バラエティの黄金期」を迎える。

糸井重里をして「あとは総理大臣になるしかない」と言わしめた絶頂期。

しかし好事魔多し。当時群雄割拠であった写真ゴシップ誌にキャンペーンを張られ標的にされた挙げ句、そこから端を発した講談社襲撃事件で、タレント活動は謹慎という形で中断を余儀なくされる。

f:id:kidocolor:20130914184413j:plain

半年後に、復帰はしたが事務所も変わり、世間の熱は一時ほどではなくなり、どこか本人も「勘を取り戻し切れない」まま、芸能活動を継続し、やがて映画に手を染める事になる。 

ピカソ風に言うならば『漫才の時代』『バラエティの時代』そして『映画の時代』と移り変わったといえようか。

 私はこのバラエティの黄金期から映画に手を染める初期までの1984年から1988年まで在籍し、うち2年間を付き人として傍らでプライベートも含め常に帯同していた。

結局バラエティ隆盛の時期全てを眼前で観る事が出来たのは振り返ると自分1人だけだった。

当初、ここで受けた薫陶を活かし芸能活動に邁進するつもりだったが、現在の私は芸能活動から離れている。

これまでにビートたけし本人は、様々なメディアで過去も含めた自己を語り、現在はその多くを書籍やインターネットで識る事が出来るようになっている。

軍団もテレビ番組で折に触れ、ビートたけしとのエピソードを語っている。

しかし自分がそれらを眺めつつ感じるのは、ビートたけしの魅力はそれほど簡単なものではないし、ともかく視点に疑問がある。一歩深い洞察まで辿り着いていない。

軍団が語れば自分達を擁護する意図で加工されるし、そもそも本人が語る時でさえ「主観」がどうしても混じる。

そこで、このブログでは“あの”時代を自分の視点で書きたい。それは記憶が薄れつつある自分に向けて書く。と言った主旨だ。

だから敢えて自分が観た「真実」とは言わない。

一時期、回想録として書籍化も考えた事もあり、その時は出版寸前まで話が進んだが、それをやるとたけし軍団浅草キッドと同じ次元の「過ち」を冒す事になると気付き中止にした。

それは「ビートたけしを利用して生きる」という事に他ならない。私はそれを潔しとしない。嫌悪していると言っても良いだろう。

私はそれを拒絶し軍団活動から飛び出した人間だ。そのため、今後もその手の話に乗る事もないだろう。

例えば芸人ではなくともまず、何らかの仕事で世間に認知され、その結果、師がビートたけしであると後から判明するなら、「やはりビートたけしはすごい人物なのだ」と「宣揚」される。

しかし初めからビートたけしの名や背景を借り世に出るのは「ビートたけしにメシを喰わせてもらっている」以外の何ものでもない。

本末転倒であり、その関係は「師弟」ではなくもはや「雇用」の関係と言える。

当初、弟子入りを必死に懇願した人間が結局は師におんぶにだっこしている現状に疑問がないのだろうか、私には不思議で仕方がない。

だからこそ、このブログのテーマは「真の弟子の在り方」を追い求めた私の生き方と言わせて欲しい。そしてそれは遅々としながら現在も進行中だ。

ともあれ、このブログは誰が目にする事なくとも、あの頃の自分に迫り、愚直に記することが出来れば良いと思う。

 

〈おことわり〉

本ブログではビートたけしは『殿』と表記、たけし軍団の敬称は略させていただく。