ビートたけしの“ボーヤ”[Phase1]
結局芸人の道を歩まず、一般人としての生き方を選んだ自分にとって、この時代の出来事で何一つ誇れるものはない。
しかし唯一他の軍団にはない勲章はある。それは当時の太田プロ、鬼の菊池マネージャーからの「ボーヤ卒業」の一言だ。
自分は現在も、過去の経歴を説明せざるを得ない場合「たけし軍団にいた」とは言わず「ビートたけしのボーヤでした」と言う。
これは菊池マネージャーに「お前らは“たけし軍団”じゃない。ボーヤだ」と常に言われていたゆえだ。
『たけし軍団』は10名の“タレント”の事を言い、それ以降のメンバーは“ボーヤ”だったり“セピア”と呼ばれる。つまりタレントではないという意味だ。
だが、一般の視聴者はテレビに出てさえすれば“タレント”と思い込む。
以前にも書いたが、殿はテレビに出しながら稽古をつけるつもりなので、ハッキリ言えば誰でも構わず出していた。
テレビに出演し「ギャラ」が発生していたのは先輩10人だけで、あとは定期的に殿から「小遣い」をもらう。(局からは当然ギャラは出ていた筈だが...)
ただしそれだけでも超御の字。一般的に芸人の弟子は自分でアルバイトをするのが普通だ。なにせ「勝手に来たあんちゃん」なのだから。
当時、自分はニッポン放送の「出待ち」から、草野球の球拾いをし、顔を殿に覚えられ、ラジオでも少々名前が出て、スポーツ大将、風雲たけし城などにレギュラー出演をしていても、気は晴れなかった。
「お手軽にテレビに出たいのではなく、“自分で演るための”お笑いの修行に来たのだ」という意識だったので、ビートたけしの名の下にテレビに出る事は、全く望んでいなかった。ハッキリ言って嫌だったし居心地も悪かった。何かしっかりとした実になる「修行」をしたいーー
セピアは軍団を見ていたので「ああいうふうにはなりたくない」といつも言っていた。なぜなら「ビートたけしのお陰で存在している」然とした佇まいが格好悪かった。
現在も浅草キッドも含めたたけし軍団は一般のお笑いタレントの中でもどこか「一人前」の扱いをされていない。その証拠に番組では彼ら自身の事ではなくビートたけしに絡めたエピソードを常に求められる。
彼らから“ビートたけしの背景”を取り去って、まともにタレントとして評価される者がいるだろうか。
他の芸人も「お前らと違って俺達は自力で出てきたんだ」と意地があり、認めない姿勢と抵抗が少なからずある。そして軍団はそれを感じてもいる。
ーー当時自分にとって、信頼できる相談相手はラッシャー板前だけだった。齢も1才違いで、俺が更新するまでボーヤの最長任期を務めており、「軍団の末っ子」として苦労をしていた。俺にとっては何でも話せる唯一の人ーー本当の意味で「兄さん」だった。
細かく言えばボーヤそのもので苦労したと言うより、ただでさえ殿のボーヤで目いっぱいなところへ、加えて調子に乗って分もわきまえない軍団の兄さん達があれこれ命じてくる。これではたまったものではない。
要するにボーヤをまともに(ホンの一ヶ月程度なら他にもいた)務めたのはそのまんま東と松尾だけで、次にラッシャー板前になるが、その苦労を大半がわかっていなかった。
前述の悩みを打ち明けると「ボーヤしかない。ともかくキツイけど一番勉強になる」と、即座に勧めてくれた。この時点ではラッシャー板前からグレート義太夫にボーヤが交代し1ヶ月ほど経っていた。
1985年の春からは元気の出るテレビ、スポーツ大将、風雲たけし城、のゴールデンタイムの番組と、純粋なコント番組のOH!たけしが新たにスタートした。それまでの世界まるごとHOWマッチ、おれたちひょうきん族、スーパージョッキーに加えた「バラエティの黄金期」を迎えようとしていた。
そして殿からの指名で水島新太郎に切り替わったが「1ヶ月」の期限付きだった。セピアの人数も増えており「短期間交代制」の方針が出された。
丁度この頃、談かんから「大道もぷらぷらしてるなら勉強しに来い」と声を掛けられOH!たけしに見学しに行くようになり、そのうちに殿からチョイ役で使われる事もあった。
ーーこの時期にちょっとしたエピソードがある。
水島新太郎が家の事情でボーヤを1日休まざるをえない状況があり、菊池さん指名の交代で俺がその日だけ務めた。番組は元気の出るテレビのロケだった。
殿と二人で過ごす時間は初体験。すさまじい緊張で臨んだが、何とかつつがなく無事に一日を終えた。
マンションに殿を送り自室に戻ると菊池さんから連絡が入った。当時は全て連絡は固定電話だ。
「殿が“鍵がない”と言ってるよー。ちゃんと渡したのー」と抑揚のない声。菊池さんは怒鳴る時と、意図的に怒りを殺し抑揚のない声の時がある。これが恐い。
ウエストバッグを探ると殿から預かったキーケースが出てきた。顔から血の気が引いた。鍵がない殿は途方に暮れて太田プロまで歩いて来たらしい。
慌てて事務所へ走った。走りながらあれこれ逡巡した。
携帯電話のない時代「あれから殿はマンションのドアが開かず歩いて事務所までわざわざ歩いたんだ..」そう考えると堪らない。なんとも申し訳が立たない。
当時のマンションから事務所までは徒歩で10分とかからなかったとは言え、天下のビートたけしが独り四谷を歩く姿を思い浮かべ胸を痛めた。大失態だ。
そして頭の一角に「残念だがこれはもう馘首(クビ)だな。俺あたりの人間にしては余りに大きいミスだ...」と肚をくくった。
事務所に着き、顔を見る事も出来ずキーケースを差し出し全身全霊でお詫びをした。それしかなかった。
「今までお世話になりました」の言葉を反芻しつつ殿の顔を見上げた。
その刹那、殿はニコッと笑い「そうか、探せば見つかるもんだろ」と、さも“なんでもないこと”と云った風で鍵をポケットに入れた。
想像もしなかったリアクションーーその瞬間「ああ、俺はこの人に一生頭が上がらない」と強く思った。
「包容力」などと軽い言葉も使いたくない。
本当の意味で、はじめてビートたけしという「人物」に触れた瞬間だった。そしてラッシャー板前のアドバイス通り「俺はこの人の、仕事以外の身の回りの事一切に尽くしたい」と改めて決意したのだった。
この日を境にタレントのビートたけしから「俺の人生の師」と捉え方が変わった。そんな出来事だった。
特殊な「たけし軍団」の構成
今から思えば不思議だった。
たけし軍団(オリジナル10人)は、バンドがベースの「ザ・ドリフターズ」や「ずうとるび」でもないし、事務所が所属タレントをかき集めて作ったコント・グループでもない。
何が不思議かと言えば、プロの芸人と落語家と素人”が混在していた事だった。
当初は東、松尾(以降敬称略)から徐々にメンバーが増えた事から「たけし軍団」と括りの名前を付けた事によるいわば最初は「俗称」だった。
草野球の助っ人に来た芸人ーー既に旬の過ぎたようなその彼らに、ビートたけしが声を掛け、また立川談志一門からも師匠に頼み込んで弟子筋であるたけしさんに預けられたのが談かん(ダンカン)と言った具合で「結果的に」過去に例を見ない無茶な構成となった。
しかし、ニッポン放送の出待ち直訴で入門(正式には一門は存在しないので“入門”ではないが)した“素人”とはいえ、『弟子志願』を踏まえて入門したメンバー(東、松尾、柳、ラッシャーの4名)は当初「修行後自力で芸人になる」のが基本線だったはずで、そのために東は漫才を組み、松尾は浅草に修行へ行くなどの模索を続けていた。
こんな調子でメンバーが増えた事から「たけし軍団はビートたけしの弟子」と簡単には言えない微妙さもあった。
大森は東に誘われコンビを組んだがぱっとせず、軍団に吸収されただけで、弟子志願をした事実はないし弟子の自覚もない。
タカ、枝豆もコントコンビのまま草野球の助っ人を経て加わり、談かん(ダンカン)は談志師匠に頼み込んで移籍して来た。義太夫は当初弟子入り志願者だったが、はじめはバンドのメンバーからの加入であり特殊だが、この何れも「軍団に加わった」意識はあっても「弟子志願者」ではない。
後に『たけし軍団=ビートたけしの弟子』との一般世間の安直な認識のまま今日までずるずると来てしまった。但しビートたけしの言葉を借りて言えば、全員ボーヤであって弟子は1人もいない。
弟子志願を経て軍団に加わったメンバーには「俺の師匠はビートたけしだ」との意識はハッキリとある。そして早いところ軍団から卒業し独り立ちをしなければと考える。
しかし他の「中途採用組」は「たけし軍団でタレントとして食べて行ければいい」と考えていた様子だった。
これがなぜ一応にせよまとまっていたかと言えば「ビートたけしと言う名の重石」があったからで、いわばユーゴスラビアのチトーがビートたけしで、この人がいなくなればユーゴよろしく、即時紛争が発生し、空中分解した事だろう。
元々我の強い芸人、芸人志望者がまとまるはずもなく、そもそも先にいたメンバーからすると、途中から加わり延べのキャリアが長いからと、急に先輩風を吹かされて心中穏やかなはずもない。
そしてそれは折に触れ様々な蹉跌を生んだ。
嗚呼「ビートたけし一門」
「ビートたけし一門」とは言うが、本人の言葉で言えば
「ウチは皆転がり込みで、一門なんてものはない」となり、実際「師匠」とは呼ばせず、本人からは「殿」と呼ぶように当時は言い渡されていた。
草野球で助っ人に来た事からの縁や落語界からの編入。そして直訴組。
直訴組は当初、自力で軍団から抜け出しピン芸人をと志向していた。しかし他の「中途採用組」は「たけし軍団」と言うタレント活動と受け止めていたし、そこから抜け出ようとも考えていなかった。
芸人で勝負を賭ける時期は一般的には精々1度きりで、それは既に終えている。残りのキャリアを、日本で知名度抜群なビートたけしの傍で活躍出来るならこれ以上の事はない。
ちなみにとんねるずは、ツーツーレロレロやカージナルス同様「お笑いスター誕生」出身で、軍団の草野球に助っ人で出入りしていた。しかし当時の番組プロデューサー、赤尾氏を怒らせ、日本テレビからは締め出しを喰らい、「干されている」状況で先は見えていなかった。
当然殿は軍団に誘ったが、彼らは「もう少し自分達でやってみます」と断りを入れた。その後フジテレビの「オールナイト・フジ」でブレイクする。人生には何度も分岐点がある。長い目で見なければわからないが、全てに意味はある。
とんねるずの場合も新宿御苑の『KON』と言うショーパブに出入りしていた時に常連のフジテレビスタッフに見いだされての『ブレイク』だった。
とは言ってもカージナルスがとんねるずになるはずもないしその逆もない。ひとつ言えることは「安直な判断に未来はない」と言う事だろう。とんねるずはそれを示したように思える。
そこを見極めたかのように当時のセピア若手は軍団よりとんねるずを尊敬していた。
方や、直訴組は単純に素人だ。突然無闇にテレビに出されても、気の利いた事など出来ないーーというよりも、だからこそ勉強目的で弟子入りを志願して来たのだ。
どう勉強するのかーー実はここがたけし一門最大の問題かつ特殊な所で、まず師匠は日本で最も多忙なタレントである。故に軍団が芸事を教え授かる場面がない。そこで絡みのある番組で、それを同時に行おうとしていた。
いや、正確には「軍団に芸を教えよう」とは考えていなかったと思う、それをそのように本人が言ったとしても私は「それは後付けでしょう」とハッキリ目の前で言える。
殿は単純に“ビートたけしの番組”としてのクオリティに真剣だったに過ぎない。だから容赦もなかった。何かを教えようとしているよりも、余計な事をしでかさないように、リスク管理していた印象だった。
軍団のテレビ出演はすなわちビートたけしとの共演であり、いじられ役でもある。これを受け容れるのみだった。
当然、軍団のあらゆるリアクションは殿への“媚び”となり、それが体に染みついてゆき個性が死んで行く。あくまで“ビートたけし好み”のタレントに狎(な)れて行く。
自分は「このままではまずいな」とこの事態を深刻に受け止めていた。
反対の例で言えば『ダチョウ倶楽部』はそれまでは“やがて自然消滅するであろうタレント”に含まれていたような存在だったが『お笑いウルトラクイズ』でブレイクした。
評価がそれまで低かったが、じっくり独自の路線を歩んでいた“個性の強さ”が『お笑いウルトラクイズ』でビートたけしと絡む事で引き出された実例であり好例だ。
当時軍団は自らの地位がビートたけしによってもたらされている“現実”を頭の片隅で理解はしていても、TVの扱いやギャラから勘違いが生まれていたように私には見えた。
人間は弱い。それは結局30年後の現在まで続いているのだから。
当時口々に兄さん達は「独立」「独立」と言っていたが、次第に「さんざん世話になったのに離れるなど恩を仇で返す事になる」などと言い出し(飛び出して成功するなら師匠へ恩を返す事になるだろう!?)自己の立場を次第におかしな理屈で肯定し出した。
その実態を眺めていた自分は「修行を終えたらここから出なければ自分がダメになる」と決心した。
1984年12月於:有楽町ニッポン放送
去年までは体育の教師になるはずの自分が、その時ニッポン放送の玄関前に立っていた。
正確には道路を隔てた反対側の歩道からその光景を眺めていた。
深夜3時を回ろうとするこの時間に、おそらくはまだ10代と思しき50人ほどの女子達が電車は始発覚悟で「出待ち」をしていた。
姦しいそれらのファンへ埋没するかのように、息を殺し思い詰めた表情で立ちすくむ数人、男子の姿が視界に入る。ーー弟子志願者である。
3時の放送が終了するや、玄関口からたけし軍団達がパラパラ姿を現し、そのタイミングに合わせ白いセドリックが玄関前に停車する。
軍団は花道を作り、スムーズにビートたけしが車へ乗り込めるように段取る。
通常ファンは、その「軍団柵」ごしに嬌声とともにプレゼントを渡すなりビートたけしにコミュニケーションを取ろうとする。
「もしも自分に入門の使命があるなら必ず一発で叶うはず」
ーー若年固有の無根拠な確信を胸に自分はその「軍団柵」を超え、車の後部ドアに向かわんとするビートたけしの真正面に立ちはだかった。
何と申し出たかは失念している。「弟子にして下さい」も図々しい。おそらくは「お傍で勉強をさせて戴けませんか」程度の、自分なりに最大限神経を使った言葉だったはずだ。
そもそも、弟子志願をするロケーションも考え抜き「弟子志願自体が図々しくはあるが、定番になっている場所の方が迷惑度は少ないであろう」との結論を出していた。
目が合い、少々困った顔をするとやおら談かんを呼ぶ。談かんからは「ボクのアパートに来て下さい」と言われた。
ーーともかくその日から、かの、談かんのアパート「ゆたか荘」の住人に加わった。ただしこの頃は極めて不安な毎日だった。
そもそも軍団でさえ「一門」の形もなく皆「転がり込み」のまま『たけし軍団』に形成されただけで、自分も紛れ込めたのかさえも分からない。
初日に「まあ、草野球の球拾いでもしていれば、顔も覚えられるさ」という談かんの言葉を半分信じていただけだった。(今思えば何と優しい事か。その後志願者を問答無用で断り続けた自分とは違う!)
当時はバブル期。ゆたか荘も立ち退きを迫られ、まもなく引っ越しせざるを得ない状況。
「アパートの場所を知られてもどうせ引っ越すから構わない」との考えからか、ファンに住所を公開し堂々と談かんはファンに移転費用を募っていた。
そこで、寄付後のファンを駅まで送るのが自分の役回りだった。
...その頃高校生だったファンの皆さんも現在40才代な訳で、皆さんお元気だろうか。
拝啓 “あの”時代の自分へ
私が1984年12月に、有楽町ニッポン放送で入門を申し出てから早、2014年で30年の歳月が経とうとしている。
当時ビートたけしは37才。漫才から離れ、たけし軍団とともにコントや新たなバラエティの途を模索していた時代。しかし、世間の評価はまだまだだった。
そして翌年の1985年から怒濤のごとく新番組がスタートするや、各局8時台すべてを視聴率トップで制覇するという、まさに「バラエティの黄金期」を迎える。
糸井重里をして「あとは総理大臣になるしかない」と言わしめた絶頂期。
しかし好事魔多し。当時群雄割拠であった写真ゴシップ誌にキャンペーンを張られ標的にされた挙げ句、そこから端を発した講談社襲撃事件で、タレント活動は謹慎という形で中断を余儀なくされる。
半年後に、復帰はしたが事務所も変わり、世間の熱は一時ほどではなくなり、どこか本人も「勘を取り戻し切れない」まま、芸能活動を継続し、やがて映画に手を染める事になる。
ピカソ風に言うならば『漫才の時代』『バラエティの時代』そして『映画の時代』と移り変わったといえようか。
私はこのバラエティの黄金期から映画に手を染める初期までの1984年から1988年まで在籍し、うち2年間を付き人として傍らでプライベートも含め常に帯同していた。
結局バラエティ隆盛の時期全てを眼前で観る事が出来たのは振り返ると自分1人だけだった。
当初、ここで受けた薫陶を活かし芸能活動に邁進するつもりだったが、現在の私は芸能活動から離れている。
これまでにビートたけし本人は、様々なメディアで過去も含めた自己を語り、現在はその多くを書籍やインターネットで識る事が出来るようになっている。
軍団もテレビ番組で折に触れ、ビートたけしとのエピソードを語っている。
しかし自分がそれらを眺めつつ感じるのは、ビートたけしの魅力はそれほど簡単なものではないし、ともかく視点に疑問がある。一歩深い洞察まで辿り着いていない。
軍団が語れば自分達を擁護する意図で加工されるし、そもそも本人が語る時でさえ「主観」がどうしても混じる。
そこで、このブログでは“あの”時代を自分の視点で書きたい。それは記憶が薄れつつある自分に向けて書く。と言った主旨だ。
だから敢えて自分が観た「真実」とは言わない。
一時期、回想録として書籍化も考えた事もあり、その時は出版寸前まで話が進んだが、それをやるとたけし軍団や浅草キッドと同じ次元の「過ち」を冒す事になると気付き中止にした。
それは「ビートたけしを利用して生きる」という事に他ならない。私はそれを潔しとしない。嫌悪していると言っても良いだろう。
私はそれを拒絶し軍団活動から飛び出した人間だ。そのため、今後もその手の話に乗る事もないだろう。
例えば芸人ではなくともまず、何らかの仕事で世間に認知され、その結果、師がビートたけしであると後から判明するなら、「やはりビートたけしはすごい人物なのだ」と「宣揚」される。
しかし初めからビートたけしの名や背景を借り世に出るのは「ビートたけしにメシを喰わせてもらっている」以外の何ものでもない。
本末転倒であり、その関係は「師弟」ではなくもはや「雇用」の関係と言える。
当初、弟子入りを必死に懇願した人間が結局は師におんぶにだっこしている現状に疑問がないのだろうか、私には不思議で仕方がない。
だからこそ、このブログのテーマは「真の弟子の在り方」を追い求めた私の生き方と言わせて欲しい。そしてそれは遅々としながら現在も進行中だ。
ともあれ、このブログは誰が目にする事なくとも、あの頃の自分に迫り、愚直に記することが出来れば良いと思う。
〈おことわり〉
本ブログではビートたけしは『殿』と表記、たけし軍団の敬称は略させていただく。
You Just Haven’t Earned It Yet, Baby
“If we open a quarrel between the past and the present, we shall find we have lost the future”
(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill)