希土色の刻

KidocolorOhmichi's Reminiscences

消えた『ホワイト』な景色(1986年)

 振り返るに軍団セピアまでと、それ以後のメンバーとの間には決して小さくない「時代の切り替わり」ーー気取って言えば“カイロス(主観的・内面的な時間)”が横たわっていた。記憶に残る情景もこの前後ではまるで違う。

以前会ったガダルカナルタカは「殿は今でも“フライデー事件以前と以後のメンバーでは全く違う”とよく言っている」と語る。

いわんとする意味は「フライデー事件の時期に在籍していたか」ではなく、襲撃に加わった世代のメンバーとの区切り。芹沢や浅草キッドブラザース世代も含まれていない。

そして現実的に周囲の環境も大きく変貌していた。その要因は当時の時代背景にある。

ーービートたけしがバラエティ番組で成功し始めた1985年は、世間で言うところの『バブル期』だった。

俺も未だに当時の狂気じみた高揚感が、業界特有のものなのか、バブル期故だったのかが判然としない。なにしろ金のない我々下っ端でさえ、毎日いくらでも酒が飲めて遊べていたが、そんな状況は、到底まともではなかった。

やがてバブル景気は地価を押し上げ、四谷四丁目界隈も格好のターゲットとなり、殿の住まい(四谷サンハイツ)と太田プロがあった四丁目から三丁目間の新宿通り沿いが根こそぎ建て替わり、短期間ですっかり景色が変わってしまった。

それまではプラモデル屋や金物屋、和菓子屋、履き物屋、畳屋、バイク屋、当時太田プロが入居していた「四谷水喜ビル」の1Fには『山一電器』が入り、その右隣のビル1Fにはラーメン店『小次郎』と、個人経営レベルで普通の「商店」が立ち並び、どこか時間がのんびりと流れていた。

時折ーーそれは俺がサンハイツに出入りする際の偶然なのだがーー夕暮れ時の街並みを、仕事がオフだったのであろう、気まぐれに立ち寄った事務所(太田プロ)帰りの殿が、ficceのニットに黒の革パンツで、うつむきながらポケットに手を突っ込み、遠くからでもよく目立つ“がに股”で、こちらへ歩いてくる景色は、今思い返しても印象的で、まるで映画“タクシードライバー”のポスターのように「サマになる画(え)」だった。

猫背とがに股を心底格好良く感じさせるのはこの人だけだ。

ーーこの頃の殿は近所をひとりぽつねんと歩く事はそう珍しくなかった。パレエテルネル住まいの頃もポルシェはサンハイツの駐車場にあり、そこへは徒歩で行き来していた。

「何かあったらどうするんですか」と慮る周囲とは対照的に本人はまるで無頓着で、じっさいオフにはよく二人で書店巡りなど新宿の街を歩いたものだった。

徒歩なら意外なほど周囲には気付かれないものと知った。

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 上:1985年の四谷四丁目〜四谷三丁目間の新宿通り 下:現在 (ともに赤の囲みは四谷サンハイツ)

1984年当時、殿の住まいである『四ツ谷サンハイツ』の、新宿通りを挟んで反対側には低階層の古いビルやマンションが並び、今のセブンイレブン四谷4丁目店の位置には1、2階が鰯(いわし)専門の居酒屋『いわしや』があった。

そしてその地下にはあまりにも有名な伝説のバー『ホワイト』があった。

『ホワイト』をまともに語ると文字数が膨大になるので、仔細は書籍『白く染まれ』を読んで欲しい。

興味のある向きにはたまらない本だと思う。

実に様々な人物がこの店で交錯し、まるで『業界』を凝縮したような存在。こういった時代を掘り下げることもまた一興だろう。当時の景色も眼前に浮かぶかもしれない。

この本には殿も一文寄せている。

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狂奔するバブル景気で、古いビル群が軒並み取り壊され、次々に更地が露出する中、ついに『ホワイト』もビルの取り壊しが決まり1986年、六本木に移る。

しかしそうなれば殿からすると身近さに欠け「わざわざ行くほどの店でもない」とそれ以降、疎遠になった。

誤解を恐れずに言えば、それまでも帰路に“たまたま”在ったから寄ったに過ぎなかった。

当時四谷界隈は芸能事務所や出版社、レコーディングや撮影のスタジオが多く、そのせいか四谷三丁目の「英(ひで)」をはじめとして荒木町界隈にも業界人が集う「文壇バー」が数件あった。

地理的にも当時の主(おも)だったTV局から囲まれるように位置し、業界人は新宿や赤坂、六本木で飲みはじめて四谷・荒木町に流れるパターンが確立されていた便利なエリアだった。

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1986年当時はまるで“TV局のほとり”でも呼びたくなる位置関係。

ーーボーヤだった時期に俺は四谷サンハイツの2階に詰めていたが、この頃事務所へは『ホワイト』移転の挨拶を認(したた)めハガキが届いており、既に移転寸前だった。

話には聞いていたが、夜中に四谷四丁目の交差点で喧騒が耳に入ると決まってそれは『ホワイト』前の歩道で、たいがい内田裕也絡みだった。

それだから、外が騒がしい夜は「今日は裕也さんと誰が揉めているんだ?」とカーテンから覗く事はごく日常だった。

どういうわけか『ホワイト』でのケンカは決して殺伐とはしていなかった。

当時の“オトナ”は誰しも“ケンカ慣れ”しており、血みどろの殴り合いであっても決して生死に関わる事態にはならなかったのだ。

そしてケンカはいつも、皆が一目置くような人物が最後に割って入り一応収まっていた。

まだこの頃には暗黙ながら「オトナのルール」がどっしりと存在していた。

そして「オトナと子供の領分」が明確で『ホワイト』は各業界の若手にとって「オトナへの入り口」か、ある種の「社交界デビューの場」と言っても良い。

先輩が面白半分に『ホワイト』へ若手を連れて行く。しかし闇鍋よろしく誰が店に来ているかは分からない。メンツによっては、あるいは手荒い洗礼を受ける事もあるだろうが、前述の書籍を読む限り、何が起ころうが、たとえどんな目に遭おうが、のちにその場面を個々人は愛おしい記憶として胸中に抱いているようなのだ。

ーー殿も仕事帰りに気が向くと俺を連れ、酔いに任せて『ホワイト』に行く事があった。すると当時、左門町に住んでいた阿佐田哲也こと故色川武大がいたりと、誰かしら“文化人”と呼ばれる人種がいた(色川氏とホワイトで会った事はラジオでも触れていた)

タバコの煙越しに揺れる彫りの深い彼らの姿は、煙草を燻らせ、あるいはグラスを傾けるなど、それぞれが皆格好良く実にサマになっていた。

階段を降りてきた殿をミーコママがみとめると、促されるままカウンターに座り、一杯水割りを頼む。そして軽く店内を見渡しながら俺に「何だっけアイツの名前さあ、ほら最近CMに出てんだろ」と尋ねたり、脇で耳に入る会話に「アイツ生き方が軽いから、ホラ聞いてみろ、言葉に説得力がねえだろ」などと、さらりと毒づいたりしつつ、飽きたのか面倒にならないうちになのか、1時間を待たず切り上げ、慰留するママに「すまないね」といったふうに詫びながら笑顔を向け店をあとにする。

色川武大がいたときは、はにかみながらチャーミングに会釈(氏は浅草芸人が好きだった)する氏に招かれるように相席した。

しかし察するに『麻雀放浪記』程度しか認識のない殿は「いやあ、俺は先生が麻雀で負ける場面を観たいなあ」と、人の才能に畏敬の念を隠さず、例えば野村克也氏の前になると照れて様子がおかしくなり単なる野球少年に戻る姿同様、やはり自身も麻雀好きである事から照れて会話が続かない様子だった。

ーー思い出せば当時そこで会った人々は既に故人が多く、まるで夢の中の出来事のようにも思える。

今でも「そんな四谷はもうどこにもない」と分かっていても、俺の中にはあの頃の“無頼が似合う四谷”が印象付いている。

猥雑に濡れ光る路面と、あたりにたちこめる煙草のヤニとスコッチが混じり合った匂い。そして「はじまるぞ」と予感した通りにケンカが始まるーー

この年はFOCUSを後追いしたFRIDAYをはじめゴシップ写真誌が次々に創刊し5社体制となり、フライデー襲撃事件へ繋がる徒花(あだばな)が萌芽しはじめていた。

やがて各紙はビートたけし包囲網を敷き、じりじりと殿を追い詰めはじめる。夏以降にはいよいよえげつなさを増してゆく。

 『ホワイト』が在った頃の四谷は泡沫(うたかた)のバブルが支えた部分はあったにせよ、慥かにTV局のほとりに抱(いだ)かれた「オトナの文化」の香りがあった。

その後の四谷は、ビートたけし一門が事務所を移り、TV局も次々に移転、界隈はさらに数多(あまた)の建て替わりを経て無味無臭のオフィス街となっていった。

白く染まれ―ホワイトという場所と人々

白く染まれ―ホワイトという場所と人々

 

 

“もう一つの”たけし軍団達へ

俺が在籍した約4年間で、おおよそ100人以上の弟子入り志願者を断っていた。

願いを果たせなかった志願者達。そんな彼らを殿はどう捉えていたのか。

ーーこのブログを書いている理由のひとつには、殿から何度も言われていた、“ある言葉”に絆(ほだ)された、一種の「責任感」とも「義務感」とも言える感情がある。

お前らはオレのところに来られなかった奴らの「無念」と「怨念」を背負っている事を絶対に忘れるんじゃあねえぞ。それを肝に銘じてしっかりやれ。

 当時弟子入り志願者を断っていたのは、殿からの厳命だった。

殿は生粋の江戸っ子。頼まれたら断れない性分。(俺も直談判出来たので、なんとか紛れ込む事が出来た)だから俺やダンカンを担当に立て、その対応をさせた。

そんな弟子入り志願者達は殿に憧れ、熱病患者のごとく日本国中から集まってきた。

深夜の有楽町ニッポン放送前の路上で、脳天気に嬌声をあげながら「出待ち」をするファン群に身を潜めながら機を伺い、あるいは各種イベント会場の出口付近で佇み、北の屋の店先で、とうに終電もなくなった時間まで、書き溜めたネタ帳を脇に抱え、思い詰めた面持ちで、殿を待ち構えていたのだった。

それは「ついこの間までの自分の姿」でもある。

中には女性もいて、この手の者は不思議な事に「私が考えたネタをなぜかたけしさんがコントで使っている」などと言い出し、自己の特異性を強調しようとする。

そして「座付き作家になりたい」と頭を下げるのであった。

また、俺の知人から連絡があり「◯◯という人が今たけし軍団にいるでしょう?」と、聞いた事のない名が出て来る。

察するところ「たけし軍団に入る!」と大見得を切って故郷を後にし、直訴を前に怖気づいたのか(これは正常な感覚だと思う)定かではないが、結局果たせずじまいのまま、引っ込みがつかなかったのか「たけし軍団に入った」と虚偽報告をしてしまったのであろう。

わからなくはない。殿を目の前にして直訴するには一種の「狂気」が必要だ。なかなか実行に移せはしないだろう。

ーー殿が不在時にマンションを訪れた者もいて、預かったネタ帳を殿に見せると「お。こいつ面白いぞ。連絡取れ、なんならお前コンビでも組め」と言われた

ネタを書いた奴が俺と組みたいかは別として、ネタ帳の裏に記された番号に電話を架けるとなぜか出ない。時間帯が悪かったのかと思い、時間帯を変えて3日間連続して架けたがとうとう出なかった。

不思議にこういう事はままあった。

物事は結局タイミングで、例え殿が興味を示したとしてもすれ違ってしまう。そこには我々の与り知らぬ何らかの力による「思し召し」があるのかもしれない。

ーー少なくとも自分が知る限り、後に「弟子入りを断られたので自分でやることにしました」とデビューした者の話も聞かないので、これら志願者は厳密に言えば「お笑いをやりたい」というより「弟子入りに名を借り、常に傍に居たいようなコアなビートたけしファン」であったと思うのだが、ただしそれは現在総称するところの「たけし軍団」もそう変わりがない。

また、目先では入門が叶う事が最高の喜びであろうが、人生タームとして見た場合には決してそうではない。叶った事で流され、下らぬ人間になった可能性も大いにあるーーそれは何より現在のたけし軍団の姿を見ればわかるだろう。

ーー殿が「断れ」と厳命したのは既に20人近くまで増えた、たけし軍団を含めた「ボーヤ」をこれ以上は面倒を見きれないという、単純にそれだけの理由だ。

たけし軍団には別に入門条件もセレクションもなく、井手、カージナルス等、殿が直接声を掛けた「キャリア加入組」以外は決して「選ばれた者」ではない。

「お前らはたまたま順番やタイミングが良かっただけ」ーーと殿は常日頃からそれを口にし、さらに前出の言葉を繰り返し「戒め」として軍団に叩き込もうとしていた。

しかし、すっかり狎れきった者たちには馬耳東風で、それらしいポースは取るものの、真摯に受け止めた者は見る限り皆無だった。

だから幾度となく投げかけられた殿のこの言葉を、結局今現在、誰も語れない(多分忘れている)のだと思う。

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殿に憧れ「金を支払ってでも傍に置いて欲しい」とまで考えていたであろう筈の彼らは、今やその憧れであった殿を事実上一方的に「利用し」のんべんだらりと「喰わせて貰っている」だけの存在に成り下がっている。

ーーでは、殿自身はどうだったろう。深見師匠に「宣揚と報恩」を「生涯の本懐」に置き、逆風が吹き荒れ、孤立無援の中、己を潰さんとする圧力を跳ね除けながら歩んで来たではないか。

全員がそれを知識としては知りつつも、一人としてそれを五体で受け止め「同じ道」を歩もうとはしない。

 彼らはすっかり感覚が麻痺し、中には「俺たちがいなくなれば殿は寂しがる」などといい、自己の立場を肯定しようとする者さえいる。

自分の傍に置いてしまった事で、すっかり弛緩しきった者達の様子を眺めながら、殿はきっと、これまでに断られた弟子志願者達がその場で抱いたであろう「無念さ」に思いを馳せていた。だからあの言葉を頻繁に口にしたのだと思う。

殿の眼(まなこ)に両者の差はなきに等しい。

また、俺の発言が一貫してたけし軍団に厳しい理由もここにある。

俺はこう思う。むしろ内部におらずとも、また他の職業に就こうと、テレビや書籍で殿の言葉や哲学に共鳴し、それを胸に生きるならばその者こそ「真の弟子」であろうと。そして「私の師匠はビートたけしだ」と誰に対しても堂々と言い切って欲しい。

そんな話を聞けば殿は間違いなく喜ぶだろう。

ーー俺はこの殿の言葉を忘れた事はない。それが頭にあったが故に4年のボーヤ期間を経、漫才コンビを組み殿の許から離れる決心をした。

自分が世に認められ、その俺が「実は」ビートたけしに薫陶を受けていたのだと「宣揚」せんがために。

しかし結果的には成功を得る事はできなかった。だからこれまでに自分が断ってきた弟子入り志願者たちには何かしら当時の事を報告をしたい思いがある。

いかんせん主観的な筆ではあるが、そこにかつて「弟子志願」という熱い想いを抱いた時代を振り返り「自分もいたかもしれない光景」を今後も想い浮かべてもらえたらと思う。

ビートたけしのみんなゴミだった

ビートたけしのみんなゴミだった

 

 

“天才”と呼ばれる事の侮辱

例えば、スポーツ界で『天才』と呼ばれる者は今昔を通じ数多であろう。

“アイツは天才だ”ーーこう呼ばれる事は一般的には最大の賛辞であろうし、皆はそれに疑いもないーー俺も殿と出会う事がなければ、同じような感覚だったろう。

ーー俺が専任ボーヤだった1985年〜1986年のフライデー襲撃事件が起こる前まで、おそらく殿が人生で最も多忙な時期であった。

年末から年始のテレビ番組表を眺めると特番の同じ時間帯の各局に「ビートたけし」の名があり、出演番組がアミダでつながっている。

裏っ側では出演が終わるやTV局間を急いで移動する。しかし同じ局の次の別番組への移動(戻る)もあり、それが未明まで繰り返される。

そして翌日最初の出演は朝の6時からと寝る時間はほぼない。殿を送迎するボーヤはそれ以上に寝る時間はなく、菊池さんは車で眠る。そんな時間を共有するうちに3人はさながら「戦友」の感覚が生じていた。

やがてバブルが終わり、それ以降のTVでお笑いタレントはもはやそんな稼働状況ではない。ダウンタウンの世代でさえ相当楽になったと聞く。

当時、どこのチャンネルを合わせても出演している殿に対し実に色々な「架空の伝説」が生まれ、それが関係者から、あるいは雑誌を通じ殿に伝わってくることがあった。

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ある時、こんな記事が週刊誌にあった。それは

ビートたけしはコントを演じる時に台本を読まず、ほぼ全部アドリブでこなせる天才!”

 と言うもので、新宿河田町フジテレビの楽屋で殿は記事に目を留めた。

俺も楽屋に置く書籍は事前にざっと目を通している(後に関連した会話が発生する事が多いため)ので、その記事に対しては好意的に受け留めていた。

出番が迫り、衣装の着替え時間である旨を告げ、楽屋に入り支度を始めた俺の背中に殿の怒気混じりの声がとぶ。

「大道ヨォ。俺ぐらい台本をしっかり読む人間いねぇよな?お前はいつも傍にいるから一番わかっているだろうけどヨォ」

そう突然声を掛けたものの、俺が何の事を言われているかわからないと気付き、件の週刊誌を俺に向かって滑らせた。

それを拾い開くや

「こんなふざけた事を書いてやがる。俺が台本を読まないでコントが出来る天才だぁ?バカヤロウ何を言ってやがる!」

と更に収まらない肚を、独り言のようにぶつくさと口にしつつ着替えに入った。衣装を着せながら俺はなぜかを思索し続け、やがて理解した。

ーー殿は当時、あまりの過密スケジュールに「菊池さんさァ!オレ忙しくて死んじゃうよ!仕事減らしてくれよ!」と毎日悪態をつくが、いざ楽屋に入り台本を読み込み内容が悪いと、スケジュールが大幅に狂うことも構わず、即座に作家を集め一緒に書き直しに入り自分で忙しくしてしまう。完全に姿勢が切り替わるのだ。

ビートたけし』の名で世に出す仕事に一切妥協がないーーと言うより「どこまで面白く出来るか」を常に極限まで突き詰め、命を懸けているーーといっても大げさではない。

殿は努力の人だ。「一定のセンスを持つ者がたゆまぬ努力でトップを掴んだ」というのがその姿だと思う。もちろん『努力』を厭わないのはそれが一番好きな仕事ではあるにしても。

つまり、必死に努力を重ねる者からすると、それを「さしたる努力をせずとも天性の能力だけで結果を出せる天才」と簡単に呼ばれてしまう事はこの上なき侮辱なのだ。

しかし我々凡人は「努力をせずとも秀でた結果を出せる者=天才」と単純に考えそれを相手に冠する事で「敬意を払っている」と思い違いをしている。

そもそも一流の人物は殿に限らず自己の取り組みを「努力」や「苦労」と感じていない。

例えば、サラリーマンが好きでもない仕事を「喰うために苦労をしている」状況とは全く違い、好きな仕事なので当たり前の労力と捉え、とことん取り組んでいるが、傍から見ると命を削ってるが如くの姿を当人はまるでそれを自覚していない。

結果を出すために当然のプロセスであり「苦労」とも思っておらず、だから当人に「ご苦労をされているんでしょう」と尋ねても当惑の反応しかない。本人には「当たり前の“取り組み”をしている意識」しかないのだ。

しかしそこを洞察できずに思い違いし「努力をせずとも出来てしまう天才」と簡単に言われると「ふざけるな!」となる。

従って誰かに対し簡単に『天才』と口にしてしまう者は、対象者の奥底に横たわる努力や本質を一切理解も洞察も出来ていない愚かさ、浅薄さを露呈させているだけなのだ。

だから俺も世間で『天才』とあまりにも軽薄に使われている事をその一件以来、危惧しながら半ば蔑み混じりの眼(まなこ)で眺めてしまうのだ。

 

たけし吼える!

たけし吼える!

 

 

 

 

 

HAIR DIMENSION(ヘアーディメンション)とビートたけし

4月19日の報道でHAIR DIMENSIONの破産を知った。

1990年代の終わり頃に巻き起こった「カリスマ美容師ブーム」の“火付け役”と言われた有名店だった。

www.fashionsnap.com

HAIR DIMENSIONと言えば一世を風靡したCHIKAさんが関わった青山店が有名だが、本店は四谷三丁目にあった。以前水喜ビルに太田プロがあった時代には斜向いの位置関係だ。

「聖子ちゃんカット」が生まれたのも、やはり四谷四丁目にサンミュージック松田聖子所属事務所)があり(現在は移転)至近であったからと聞いた。

www.qjnavi.jp

なぜ今回ここで取りあげるかと言えば、殿のヘアスタイリングもHAIR DIMENSIONにお願いしていたから。

下の画像で中央右の白いタートルネックを着ている方で確か“しょうじ(漢字失念)”さんと思う。当時同店ではトップヘアスタイリストだったはずだ。

 通常、バラエティ番組の場合は局のメイク室でメイクとヘアスタイリングも行う。しかし雑誌メディアなど、ヘアスタイリストの準備や指定がない場合は太田プロを通じ、しょうじさんにお願いしていた。

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同様に衣装も媒体側で準備や指定がない場合は堀切ミロさんにお願いしていた。

ただし通常は「たけしの挑戦状」のパッケージ撮影のようにヘアスタイリングやコスチュームの用意がしっかり決まった中で撮影する事が多い。

コント番組「OH!たけし」の場合はオンワード樫山が提供であった為、衣装は(まだ過激になる以前の)ゴルチェを着用し局のヘアメーク担当にお願いしていた。

また殿自身は撮影時にカットしてもらえるので、個人で美容室に行くことはめったになかった。

この頃は後に起こる「カリスマ美容師ブーム」以前の話で、都内で有名なヘアサロンはまだそれほど多くはなかった。

他には表参道の「スターカット」が芸能人御用達だったし「モッズヘア」などは有名だったが、どこも貧乏なボーヤふぜいが行ける料金ではなかった。

それでも業界では有名な原宿の「SPARK」に俺は通っていた。急にツンツンショートヘアになったのはこのお店のスタイリング。

さて、HAIR DIMENSIONには殿以外にもやはり芸能人の顧客が多く「オレたちひょうきん族」の収録は毎週水曜日で、同じ水曜日で生放送の「夜のヒットスタジオ」とタレントクロークでは一緒になる。司会の芳村真理さんの控室は殿の控室のちょうど裏側で、外で待つボーヤの俺と、HAIR DIMENSIONのしょうじさんや顔見知りのスタッフによく声をかけてもらったのも懐かしい。

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それにしても懐かしい名を耳にして、それが破産の話と言うのはやはり寂しいが、美容師自身は技術があるかぎり、体が動く限りきっとどこか新天地で活躍されるのだろう。

“舞台”としての原宿VILLA BIANCA(ビラ・ビアンカ)

今回の内容はラジオ「オールナイトニッポン」のヘビーリスナーしか興味はないだろう。

1985年にラジオ“オールナイトニッポン”で「堀切ミロ主催の仮装パーティー」の件が語られた。招待された殿と軍団が番組やコントで使った着ぐるみを着て集まった顛末だ。

ミロさんがナチスの扮装で、東が栗、タカが股旅などのあり合わせの格好で駆けつけ、道端で職質を受けたようなエピソード。

その舞台が原宿VILLA BIANCAの地下にある“Club-D(クラブ・ディー)”だった。

クラブそのものの詳細はまとめたサイトがあるので確認して欲しいーーと思ったら“Club-D”は1986年からオープンなのでまだ“ピテカントロプス・エレクトス”の時代だと判明。“Club-D”と聞いていたはずなのに記憶が混濁してきたかな。

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ここVILLA BIANCAの地下スペースはピテカントロプス・エレクトスの時代からポップカルチャーの発信地だった。ミロさんは「元祖スター・スタイリスト」で、当然のように界隈で馴染みだったのだろう。

件の仮装パーティーは1985年で、この年でピテカントロプスは閉店。1986年から“Club-D”となってから俺は毎週火曜日に通うようになった。

火曜日はマルイやデパート関連の「水曜定休業界(当時)」の友人と遊んでいた。

この頃はバブル景気の真っ最中で東京全体が高揚していた。

岡崎京子氏の「東京ガールズブラボー」ではこの頃の空気感がよく分かる。

ーーそんなVILLA BIANCAだが、話はこれで終わらない。

フライデー事件」の後、写真誌のマークと当時の運転手芹沢の度重なる致命的なヘマによって当時の殿の住居“パレ・エテルネル”は世間にすっかりバレてしまい。ファン巡礼地化で連日人だかり。

出入りの住人にまぎれてオートロックを突破し内部に入り込む不埒なファンまでおり、マンション側からの苦情も限界に達し、移転を余儀なくされていた(そのくせ管理人に最後はサインをねだられた)

当時メディアからの隠れ家となっていた伊豆・湯ヶ島ガダルカナル・タカの義兄経営)の旅館に呼び出されその場で殿から「大道よぉ。次のマンション探してこい」と命令が下った。

条件は四谷近辺ーーというのも、当時はフジテレビが新宿の住吉町、日テレが麹町、テレ朝が六本木、TBSが赤坂、太田プロが四谷三丁目と、これらの場所へ向かうに便利だったのだ。

実際、同様の理由で四ツ谷周辺には芸能事務所が多かった。サンミュージックプロダクション尾木、も当時太田プロのご近所だった。

ーー殿は実に困った人で、無類の寂しがり屋であるにも関わらず、自身の成功の実感を享受したいのか、よせばいいのに広い部屋に住みたがる。

実際、俺が部屋の片付けをする際に殿が動いたと確認できる範囲は四畳半程度で、“起きて半畳寝て一畳”とはよく言ったもので、殿には昔の抜きがたい貧乏暮らしのリズムが五体に染み込んでおり、広さなど実質不要だ。

しかし仰せの通りに広い部屋に決めて住むや、日を置かず寂しくなり「よぉ誰か一緒に住まねぇか」と同居人募集をはじめる。

過去にはラッシャー板前がボーヤを務めつつ内弟子状態だった期間があるが、曰く「プライベートゼロで頭がおかしくなりそうだった」との事で、俺もボーヤを務めていない状態ならまだしも、ボーヤでありながら同居をするなど出来れば避けたい。敬愛しているが故に程よく距離を置きたい。ただ、指名されたのなら受ける覚悟はしていた。

当時軍団には既に既婚者や同棲者も居、そこを慮る姿勢が殿にはあり昔とは勝手が違う、やがて誰も挙手しない有様に「一緒に住まねえかこのやろう!」とわけの分からない脅し状態になるも、皆の「殿、殺生でござる」の切迫した気配を敏感に察知し結局諦めるのだが...

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ーーさて、次なる住居の要件はやはり一定の広さと利便性。

迎えに行く際に車を停める動線やエントランスの案配。余りファンにバレやすい立地も避けたい。ポルシェを停める駐車場も欲しい。

と言っても殿は結構ぶらりと気まぐれに外へ出歩いたり、こちらの都合に無関係に動くのでそんな気遣いも結局は毎度水泡に帰すのだが。

いろいろ不動産を回りながらリストアップし、候補を揃えて殿に示した。そこにVILLA BIANCAも入れておいた。

個人的には以前から可能なら住居は太田プロから離したい気持ちがあった。ファンが巡礼コースにしてしまい制御が面倒なのだ。

その点、VILLA BIANCAが建つ明治通り沿いの立地は車を乗り入れるには便利だ。

地下には“Club-D”があり人が集まる場所ではあるが「そんな場所にタレントは住まないだろう」と考えがちな世間を欺く目論見もあった。

懸念点は建物が古くオートロックがない点とラウンジスペースがありマンションの住人と交錯する機会が多分にある事。

それとこれは懸念点ではないが、だだっ広い部屋の片隅になぜか「バーカウンター」が据えられている。

ただし俺も半分「遊び心」で候補に入れておいたので、まず選ばれる事はないだろうと考えていた。

間取り図を次々に繰りながら俺は選んだポイントを説明していく、するとVILLA BIANCAのところで一言「なんだ?この“バーカウンター”ってのは?」と笑われ「いいよ。ここにしろ」と言われた。なんと決定である。今度は俺が驚いた。

こうなると懸念点が一気に現実のものとなり不安に変わる。これは本当に俺が同居してガードする体制が必要かも知れないーーそんな逡巡もあった。

翌日、その資料を携え太田プロに向かう。すると副社から「大道ご苦労さん。でももう決めたの。こっちから殿には言っておくから」と淡々と言われ拍子抜けした。

確かに考えるとマンションの苦情は全て事務所に行っているのだから、移転を検討して当たり前、俺の調査はただの徒労だったのだ。

それはそうとして太田プロが決めたのは麹町のエクレール一番町だった。これも日テレから200mも離れていない。ファンが日テレから流れてくるのは時間の問題だろう。太田プロのセンスと思慮のなさに呆れた。そして気が重たくなった

結局このマンションは自分が軍団を離れる事となり最後に知る殿の住居となった。

ーーこのように「仮装パーティ」から殿の住居候補にまで挙がったVILLA BIANCAだが、このエピソードはやはり俺しか知らない事だ。今思えばここに住んでも面白かっただろう。あらたなラジオのネタの一つでも出来たかもしれない。

「大道の馬鹿野郎が原宿のど真ん中にマンション決めやがってよォ」なんて具合に。

そして残念ながらVILLA BIANCAは築50年が経過し間もなく取り壊しの計画と聞く。ミロさんも亡くなり、思い出のロケーションがまた一つ消えるのだ。

東京ガールズブラボー (上)

東京ガールズブラボー (上)

 

 

 

『たけしの挑戦状』発売30周年に寄せて

歴史的な『クソゲー』として必ずその名が挙がる『たけしの挑戦状』が今年の12月10日で発売30周年を迎えるという。

今回確認するとなんとフライデー事件翌日の発売だ(笑)こんな事はすっかり忘れていた。

 

このゲームに関してなら、当時ボーヤで最初から最後まで事の成り行きを見ていた。

そこで当時の事を思いだし、つらつらTweetしていたら長くなったので、こちらにまとめて書くことにした。また自分で一旦整理しておきたい気持ちもある。

 発端は「最近グレート義太夫ファミコンに夢中になっている」と聞いた新し物好きの殿が、「そんなにおもしろいのか」とばかりに、ファミコン本体とそのタイトル『ポートピア殺人事件』を用意させた。

四谷四丁目サンミュージック裏のマンションパレエテルネル住まいの頃だ。

義太夫から簡単に説明を受けながらゲームをはじめた殿は、やがて義太夫を質問攻めにしながらのめり込んで行った。連日、仕事を終えるや直ぐさま帰宅しゲームをやっている、という具合に。

ただし今から思えば「のめり込んでいる」と言っても1週間程度の話だった。

そしてゲームを進めるそばから「こういうのはどうだ?」「ここがこうなら面白いな?」とゲームをしながらアイディアが次々と浮かんできている様子で、ネタ帳であるノートにもそれらを書き留めていた。

やがて殿は「面白いゲームが出来そうだ。どこかで作ってくれないかな」と言い出すようになっていた。

当時の殿は、次々に頭に浮かぶアイディアを片っ端から形にしたがるほどエネルギッシュだった。

そこへほどなく『北の屋』でゲーム会社との顔合わせの場がセッティングされた。

今回、当時の事を自分なりに調べた。自分も誤解していた部分かもしれないが、そもそも太田プロが当時、ゲーム会社にコネクションがあったかと言えば実に疑わしい。それまでゲーム関連の実績など皆無だったのだから。

今まですっかり、殿の意を汲んで太田プロがアレンジしたと思い込んでいたが、実際は元々タイトーからゲーム企画の話が太田プロに持ちかけられており、そこへ殿も「ゲームを作りたい」意志が菊池さんに寄せられ「渡りに船」とばかりに、かなり乱暴ながら場を持ったのかも知れない。

太田プロとしては結論、ビートたけしのゲームが発売されれば良いだけの話だったろう。

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問題があったとすると、タイトーはキャラクターと名前だけを借りるつもりで、ゲームの企画は既に用意していた。しかし殿は殿で自身の企画があり、双方の目論見は全く別だった事だ。

ちなみに当時、アイドルの名を冠したゲームタイトルは少数ながら存在していたが、タレント系の本格的なRPGはなかった。

北の屋の座敷に集った面々は、スーツを着た幹部と思しき社員が5、6人と、そんな彼らと明らかに毛色が違い、カジュアルな制作側のメンバー2、3名の総勢10人程度と、正直多すぎる印象。

名刺を受け取ったが前者が「タイトー」で、後者が「セタ」とあった。

事前には「タイトー」と聞いていたので「“セガ”なら知ってるけど“セタ”?」と思い、そのせいで今日までその名を記憶していた。

自分の目からはスーツのメンバーは「せっかくあのビートたけしに会えるのだから」と半ば立場を利用して好奇心から来てしまったように見えた。

顔を合わせ、挨拶もそこそこに猛烈な殿のプレゼン兼独演会が始まり、スーツの面々はまるで話について来られず、きょとんとしていた。

しかしただ一人だけ身を乗りだし、殿と丁々発止とばかりに「じゃこう言うことですか」と立て板に水の如く提案もしつつ向き合う制作側の人物がいた。

恐らく「セタ」のディレクターだと思うが、カジュアル系のスーツにティアドロップ・フレームのメガネと強めのパーマヘア。もしかするとヒゲもあったか。風貌は当時の典型的なクリエータータイプ。

ともかく反応がよく、時折投げかけられる殿の冗談もキッチリ受け止めて笑っていた。

或いは殿のプレゼンに魅せられ、感応し引き込まれていたのかもしれない。

プロといえば中には「ゲームを分かってませんね」とばかりにシロウト扱いの姿勢を滲ませる者もいるが、彼は「なるべく希望を形にしよう」とばかりに大きく頷きながら、時折再確認をしつつ、真摯に耳を傾けてくれている。

頭の回転と感覚が良いことは、傍からみてもよくわかった。殿の常識を超えた企画案とそのユニークさを完全に理解出来ていると思しきはこの人物だけだった。周囲の様子との落差からもそれが一層際立っていた。

今思えば彼はいったい何者だったのか?

調べると福津という人物がこのゲームの正式なディレクターであるが、彼に関して残されたテキストを確認する限り、北の屋の場にいたことだけは間違いないが、自分の人物像と完全一致するとは言い切れない。

なぜなら福津から「セタ」の経歴が確認できない。

ゲーム制作なので、フリーの外部スタッフも臨席していたのかも知れないから、名刺を受けていないだけで、福津氏は当時フリーの立場で臨席していた可能性もある。それにディレクターでもなければあの場であれだけ前面にも出られまい。

こう考えるとやはり、可能性は最も高い。ただし現時点では同一人物とまで断言はできない。

また、自分の憶測だが、タイトーの幹部社員がきょとんとしていた理由は、殿の勢いとは別に自社企画の話と、ビートたけし本人からも考えがある事を、太田プロ側からしっかりと趣旨説明がなされていなかったせいで、この流れにひたすらに戸惑っていたのかもしれない。

ーー結局、北の屋が最初の企画会議とも言える場となり、その後は恐らくはそのディレクターが中心となり、殿から出された構想をまとめたものが企画の「タタキ」となって、殿と細部の詰めに入った。

以後、確認の場の殆どはテレビ局の控え室となり、やがて具体的にゲームにまとまったものが出てきた。その際には一般的なファミコンとは見てくれの違う開発専用機(だと思う)が持ち込まれた。

そこでは殿にゲームを試してもらったり、キャラクターの挙動と絵の調子や色合い、文字の入れ方と音楽の雰囲気、展開のタイミングなどをチェックしていた。

殿には作品における画(え)とイメージがしっかり決まっているようだった。

横で聞いていると、普段は相手を「大変だろう」と慮(おもんばか)り「それでいいよ」となりそうな部分も、さすがに「自分の作品」との意識が強いせいか、時折図に書いて説明するなど、希望をしっかり具体的に伝えていた。

また、ファミコン本体の機能にも興味を持ち、コントローラにマイクがあるのを見つけると「これゲームの中で使えるの?」と確認し「じゃあ、本当は意味はないんだけど、もっともらしく歌を歌わせてさ、くっだらねー!」と、ユーザーがまんまと騙されコントローラーで歌う姿を想像し一人で笑いこけたり、ともかく「意味性」など無視し「くだらなくて不条理」という一貫性でダンジョンを次々に設定していった。

ーーこれらから分かるとおり、少なくとも「監修」などと言う関わり方ではなかった。控えめに言っても『企画構成』だろうか。

そしてゲームのCM撮影の段階でもスタジオ控え室でα版のチェックはまだ続いていた。

この場にも例のディレクターは立ち会っていた。この人物に感心したのは、他の良くいるタイプのように必要以上に殿に近づくことが無かった点だ。

控え室に顔を出し、あざとく挨拶に来ることもない。

タレントとしてのビートたけしにはさほど興味がなく、その本人が構想するゲームの完成にだけひたすら没頭していた真のプロフェッショナルだったのだろう。

CM撮影の頃にはほぼ一区切りがついたせいか、ふと見るとスタジオの片隅でスタッフと談笑しながら、今回の仕事に大きな満足を得たような笑顔を見せていた。

一方、控え室での殿も成し遂げた仕事に対して満足げな様子で、終始いつになくリラックスし笑顔だった。

ーー30年経った今『たけしの挑戦状』を振り返るとまず「あのディレクターが造ってくれた」との思いが胸に去来する。

殿の意図をしっかり理解し、それを余す所なくゲームに落とし込んでくれた。

もし、このディレクターに「北の屋」で出会わなければ『たけしの挑戦状』は完成しなかったか、少なくとも形は別のものになったであろう。

その意味ではここでもやはり殿は「人」に恵まれたのだと思う。

 『たけしの挑戦状』が発売されると殿は一定の達成感からか、以降ファミコンには全く興味がなくなり、触ることさえなくなった。

製品となった『たけしの挑戦状』も確か自身では一度もプレイしていないはずだ。

そもそも『ポートピア殺人事件』でさえ、結局最後まではやっていない。

飽きやすい性格でもあるが、そういえば他の仕事も、一度やり遂げてしまうと一切振り返ることはせず、すぐさま次に進んでしまう人であった。

ーーその後、軍団活動を離れ10年後ぐらいに、業界では有名なCAD/CAM企業と仕事をする機会があって、そこでは自分の背景を知る人物がいたせいか「“たけしの挑戦状”をディレクションした人間が社にいる」と名前だけ伺い「近いうちに会わせます」と言われたまま、その機会も結局訪れず、やがてこちらも名前を失念してしまった。

CAD/CAM業界とゲーム制作の世界は別物ではない。『たけしの挑戦状』発売後にゲーム業界を離れたキーマンがその時そこに在籍していたのかもしれない。

この人物こそが「あのディレクターだったのかもしれない」との思いがなくはないが、本日までこの確認が取れないままだ。もっとも福津浩氏に会えばそれもすべて分かるのだろうと思う。

現在「クソゲー」として誰もが知るほど記憶に残る『たけしの挑戦状』はAmazonでも中古ソフト市場でも、売れた数が数(公称80万本)だっただけにプレミアどころか数百円だ。

しかしこのありようが、ビートたけし的には何か最高の栄誉に思えてしまうのだ。

 

たけしの挑戦状

たけしの挑戦状

 

 

ポートピア連続殺人事件

ポートピア連続殺人事件

 

 

呼び捨ての粋人(すいじん)〜追悼・大橋巨泉〜

永六輔さんに続き、7月12日に急性心不全大橋巨泉さんが亡くなった。

大橋巨泉を偲ぶ会』では殿が巨泉さんへの想いを語っている。

俺からみても、殿にとって巨泉さんは本当の意味で“特別な存在”だったと思う。

俺がボーヤに就いた1985年には『世界まるごとHOWマッチ』は既に2年目。レギュラー番組として毎週のルーティーン・スケジュールだった。

殿はこの番組以前から巨泉さんにはずいぶんと可愛がられており、石坂浩二さん等『世界まるごと〜』のメンバーを中心に皆で海外旅行や、別荘を分譲購入するなど「ファミリー」の付き合いがあった。

しかし殿も1985年以降の大ブレイクで「日本で最も多忙なタレント」となり、次第に巨泉さんからの誘いもすべてに応じる事は難しくなった。

当時はあまりの過密スケジュールぶりに、移動の車中で「菊地さんさぁ。仕事減らそうよ、俺本当に死んじゃうよ」とぼやく光景は日常だった。

そんな最中「忙中閑あり」ではないが、タイミングさえ合えば、例え短い時間でも巨泉さんに応じ、食事をしたりゴルフや打ちっ放しに行くなど一緒に過ごす時間(とき)を持った。

そこには「巨泉さんだけは特別」との意志を感じた。

また、殿が草野球からゴルフへ移行しはじめたのもこの頃で、それまで「どこが面白いのかわからない」と、公然と否定していたゴルフも、巨泉さんに誘われるまま、出向く頻度が増え次第にのめり込んでいった。

 

ーー俺から観た巨泉さんの存在はビートたけしを“たけし”と呼び捨て出来る数少ない人物。

当時殿は38才であったが、横澤彪さんも“タケちゃん”だったし、呼び捨て出来る人物はそういない。

他には立川談志師匠、星野仙一さん(後から同年齢であると判明)、山城新伍さんなど。

呼び捨てが出来ると言うことは、芸能界の絶対的な先輩で、遠慮のない関係とも言える。

この頃、殿の知名度はついに「全国区」となり日本でその名を知らぬ者はいないレベルに到達していた。

周囲もそれは認知しており、糸井重里氏をして「あとは総理大臣しかない」と言わしめたほど。

しかしそれと時を同じくして、「ビートたけしの成功にあやかろう」とばかりに昔の友人・知人が頻繁に訪ねて来るようになった。

目的はほぼ同じで、自分を、或いは自分の事務所のタレントを番組で使って欲しい、ビジネスを援助して欲しい等々。

ビートたけしの成功は一定の者達の目には「利用できる金蔓(かねづる)」としか映らなかったようだ。昔はともかく、そんな彼らは、もはや「気の置けない友人」であろう筈もない。

例え薄くとも、利害が絡めば人間関係は濁りを孕む、友人が友人でなくなってゆく。

そのような状況に置かれ続けたせいか、結局殿は当時、信頼出来る友人として芸人仲間では漫才ブーム時代の“戦友”(島田)洋七師匠とたまに会う程度となっていた。

 

ーーしかし巨泉さんはそんな彼らとは真逆の存在だった。

成功したタレントの大先輩、あるいは“兄貴分”として、あらゆる場において早い時期からビートたけしを宣伝・宣揚し「この俺が言うのだから間違いない」とばかりに価値を高めようとし続けた。

この状況を本当に理解するために、まず当時の背景を識る必要がある(ただしこれらは当時を識る方々から聞いた話の再構成だ。当事者個々人で見解の相違はあると思うので、そこを踏まえて欲しい)

一般的にはオールナイト・ニッポン(1981年)辺りからのファンが多いと思うが、ツービート時代『THE MANZAI(1980)』以前の殿は業界からは真っ二つの評価だった。いや、ほぼ干されていたと言って良い。

年齢は三十路をゆうに過ぎ、二人の子持ちと、今の時代とは違い社会的なプレッシャーも凄まじい。

しかし特定の層からは強い支持があり、本人の芸に対する自信も揺るぎないが、特にTV業界は冷やかだった。いつの時代にも新たな潮流の勃興は、選ぶよりもまず避けられる。スポンサーを慮るビジネス構造からの宿命だ。

それでも生来の気性から媚び諂(へつら)いは一切しない。しかしそれらの「実力と現実のギャップ」から来る鬱憤は、やがて憎悪に近い苛立ちとなった。そしてようやく、ある番組がキッカケで、やっとその才能が天下に示される事となる。それが『THE MANZAI』だった。

ーーこれは横澤さんから聞いた話。

時期は『THE MANZAI』が企画された1979年から1980頃。出演者とスタッフが初顔合わせの場だった。殿をその場に認めた横澤さんは歩み寄り声を掛けた。時にビートたけし33才、横澤彪42才。

「君がたけし君か、よろしくお願いね」と笑顔で語りかけた。

すると殿はいきなり横澤さんの襟首を掴み自分の顔に引き寄せ、ドスのきいた声で「おれはな。テメエなんかに使われたくねえんだよ」と睨んだ。

慌てた周囲が場を取りなしたものの、太田プロ側はこれで出演の話はご破算と思った。

しかし出演の話は消えず『THE MANZAI』は大成功し、中でもツービートは、初期こそB&B紳助竜介ザ・ぼんちを筆頭とする関西勢に先行されたが、希少な東京勢で明らかに異質なスタイルのツービートは、アイドル人気さながらの関西勢とは一線を画した。

まずファンには男性が圧倒的に多かった。とりわけ大学生から若手サラリーマンといった「新しい笑い」と「質」を渇望する層に絶大な支持を得るに至り、第5回あたり以降(殿談)はさらなる支持の裾野を拡げるに至った。

ツービートこそ力づくで「天下に認めさせた」漫才師だったのだ。

横澤さんは件の出来事をのちに「たけちゃんには最初に脅かされた」と笑っていたが、横澤彪という人物の大きさなかりせばと思う。

やがて1981年5月に『オレたちひょうきん族』で8時台ゴールデンのレギュラーを得、状況は変わりつつあったが、それでもビートたけしというタレントが一般レベルにまで本格的な支持を拡げるには4年間という月日が必要だった。

 

ーーようやく『THE MANZAI』が成功したとはいえ、それ以前から業界全体が、ことビートたけしに限っては「アウェイ」の空気を醸成し続ける中、バラエティ界隈で影響力のある大橋巨泉という「強力な援軍」を当時の殿はどれほど心強く感じた事だろう。

ポイントはここだ。俺がボーヤに就く頃、殿には様々な協力者が既に存在していたが、多くが背を向ける頃から巨泉さんは一貫して殿を推し続けて来た、いわば「恩人」なのだ。

 

そして巨泉さんは具体的にはいわばビートたけしの「社交界デビュー」をアテンドした。ライフスタイルを次のステージに引き上げる“メンター”たる重要な役割をも果たしたと思う。

人間関係のグレードを上げるには、その界隈で信頼の篤い人物に引き上げて貰う必要があるのだ。

これにより、後に繋がる多くの人脈を得たのだった。

本来、同じバラエティ・ジャンルのタレントならば「将来の敵」と捉え、嫉妬心が起こってもおかしくはない筈だが、お互いが無類のジャズ好きである点で強い共感もあったのか、ともかく度量の大きな「粋人」だった。

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そんな二人が逢うロケーションは、当時巨泉さんの定宿であったホテルオークラのラウンジの記憶が強い。

このホテルの利用者は皆、著名人に対してはそっとしておいてしてくれるデリカシーがあった。

巨泉さんから誘われ駆けつけたある日の場面。この日は午後から予定があり、当然時間に余裕はない。

車で待つ菊池さんから「終わりそうになったら教えてくれ」と、俺はいわばタイムキーパー役で臨席した。

朝食を摂りながら、プライベート用の度が強い眼鏡を掛け、気分が良さそうに殿と談笑する巨泉さんは、先週の番組収録に関連したちょっとしたエピソードや、海外で見聞した様々な最新の出来事を自分の考察を交えながら縦横無尽に、いつものように肚(はら)から出る大きな声で語りかけていた。

巨泉さんは殿と2人きりで話をするのが本当に愉しみなようで、自分のスタッフも余りその場に呼ばず、俺しか立ち会っていない事もしばしばだった。

こんな時、殿はどちらかと言えば聞き役にまわる。

そして時折、好奇心から素朴な疑問を投げかけるが、巨泉さんは「さすがだな、よくぞそこを聞いてくれた」とばかりにますます上機嫌で「それが違うんだよ、たけし」と饒舌に拍車がかかる。

ともかくその光景からは殿を「心底気に入っている」様子がありありと伝わって来た。自分が見込んだ男が、自分の期待通り活躍している事が相当に嬉しかったようだ。

この頃は「どうだおまえら。たけしがここまで活躍すると思っていたか?俺は最初から分かっていたんだ」と、連れ歩きながら皆に自慢をしたいほどの心境だったのではないだろうか。

ーーそしてこういった二人の光景を眺めながら俺はいつも不思議な感覚にとらわれていた。

巨泉さんは常に殿を気にかけ、今日も先輩として、朝食を供しながら世界中で得た新たな情報・知識を惜しげもなく授けているーーまるでそれが自分がなすべき「つとめ」であるかのように。

しかしこれらは一見、巨泉さんが殿の面倒をみているようでも、実は巨泉さんこそが殿を必要としているのではないかーーそう思えてしまうのだった。

そして殿は殿で、自分を早くから見いだし応援し続けてくれた結果、いよいよ確固たる地位を獲得しつつある「今こそ」巨泉さんに応えたいと思っていたのではないか。

そう、この頃殿は巨泉さんに、喜んでもらいたい(恩返しの色合いを帯びつつ)一心で、身を削るような殺人的過密スケジュールをこじ開け「応えていた」ように思う。

ただし、巨泉さんが自分と逢い楽しんでくれる事が同時に、殿にとっても何より無上の喜びだったようにも感じていた。

ーーある時、巨泉さんと会った直後に珍しく殿は「よぉ。どうだった?」と臨席した感想を求めて来た。

俺は「あれだけ喜んでくれて、本当に駆けつけた意味と価値がありますよね」と、率直な感想ながらも今から思えば僭越に過ぎる返事をしたのだった。

 

ーー思えば出会うべくして出会った二人だったのではないだろうか。そして実はお互いが共に必要としていた切実な関係だったように思えて仕方がない。

もし人間に来世というものがあるならば、きっと二人はまたどこかで鮮烈な邂逅をするに違いない。

今回の訃報から昔の光景を想起し、ふと俺はそんな考えに浸ったのだった。