呼び捨ての粋人(すいじん)〜追悼・大橋巨泉〜
永六輔さんに続き、7月12日に急性心不全で大橋巨泉さんが亡くなった。
『大橋巨泉を偲ぶ会』では殿が巨泉さんへの想いを語っている。
俺からみても、殿にとって巨泉さんは本当の意味で“特別な存在”だったと思う。
俺がボーヤに就いた1985年には『世界まるごとHOWマッチ』は既に2年目。レギュラー番組として毎週のルーティーン・スケジュールだった。
殿はこの番組以前から巨泉さんにはずいぶんと可愛がられており、石坂浩二さん等『世界まるごと〜』のメンバーを中心に皆で海外旅行や、別荘を分譲購入するなど「ファミリー」の付き合いがあった。
しかし殿も1985年以降の大ブレイクで「日本で最も多忙なタレント」となり、次第に巨泉さんからの誘いもすべてに応じる事は難しくなった。
当時はあまりの過密スケジュールぶりに、移動の車中で「菊地さんさぁ。仕事減らそうよ、俺本当に死んじゃうよ」とぼやく光景は日常だった。
そんな最中「忙中閑あり」ではないが、タイミングさえ合えば、例え短い時間でも巨泉さんに応じ、食事をしたりゴルフや打ちっ放しに行くなど一緒に過ごす時間(とき)を持った。
そこには「巨泉さんだけは特別」との意志を感じた。
また、殿が草野球からゴルフへ移行しはじめたのもこの頃で、それまで「どこが面白いのかわからない」と、公然と否定していたゴルフも、巨泉さんに誘われるまま、出向く頻度が増え次第にのめり込んでいった。
ーー俺から観た巨泉さんの存在はビートたけしを“たけし”と呼び捨て出来る数少ない人物。
当時殿は38才であったが、横澤彪さんも“タケちゃん”だったし、呼び捨て出来る人物はそういない。
他には立川談志師匠、星野仙一さん(後から同年齢であると判明)、山城新伍さんなど。
呼び捨てが出来ると言うことは、芸能界の絶対的な先輩で、遠慮のない関係とも言える。
この頃、殿の知名度はついに「全国区」となり日本でその名を知らぬ者はいないレベルに到達していた。
周囲もそれは認知しており、糸井重里氏をして「あとは総理大臣しかない」と言わしめたほど。
しかしそれと時を同じくして、「ビートたけしの成功にあやかろう」とばかりに昔の友人・知人が頻繁に訪ねて来るようになった。
目的はほぼ同じで、自分を、或いは自分の事務所のタレントを番組で使って欲しい、ビジネスを援助して欲しい等々。
ビートたけしの成功は一定の者達の目には「利用できる金蔓(かねづる)」としか映らなかったようだ。昔はともかく、そんな彼らは、もはや「気の置けない友人」であろう筈もない。
例え薄くとも、利害が絡めば人間関係は濁りを孕む、友人が友人でなくなってゆく。
そのような状況に置かれ続けたせいか、結局殿は当時、信頼出来る友人として芸人仲間では漫才ブーム時代の“戦友”(島田)洋七師匠とたまに会う程度となっていた。
ーーしかし巨泉さんはそんな彼らとは真逆の存在だった。
成功したタレントの大先輩、あるいは“兄貴分”として、あらゆる場において早い時期からビートたけしを宣伝・宣揚し「この俺が言うのだから間違いない」とばかりに価値を高めようとし続けた。
この状況を本当に理解するために、まず当時の背景を識る必要がある(ただしこれらは当時を識る方々から聞いた話の再構成だ。当事者個々人で見解の相違はあると思うので、そこを踏まえて欲しい)
一般的にはオールナイト・ニッポン(1981年)辺りからのファンが多いと思うが、ツービート時代『THE MANZAI(1980)』以前の殿は業界からは真っ二つの評価だった。いや、ほぼ干されていたと言って良い。
年齢は三十路をゆうに過ぎ、二人の子持ちと、今の時代とは違い社会的なプレッシャーも凄まじい。
しかし特定の層からは強い支持があり、本人の芸に対する自信も揺るぎないが、特にTV業界は冷やかだった。いつの時代にも新たな潮流の勃興は、選ぶよりもまず避けられる。スポンサーを慮るビジネス構造からの宿命だ。
それでも生来の気性から媚び諂(へつら)いは一切しない。しかしそれらの「実力と現実のギャップ」から来る鬱憤は、やがて憎悪に近い苛立ちとなった。そしてようやく、ある番組がキッカケで、やっとその才能が天下に示される事となる。それが『THE MANZAI』だった。
ーーこれは横澤さんから聞いた話。
時期は『THE MANZAI』が企画された1979年から1980頃。出演者とスタッフが初顔合わせの場だった。殿をその場に認めた横澤さんは歩み寄り声を掛けた。時にビートたけし33才、横澤彪42才。
「君がたけし君か、よろしくお願いね」と笑顔で語りかけた。
すると殿はいきなり横澤さんの襟首を掴み自分の顔に引き寄せ、ドスのきいた声で「おれはな。テメエなんかに使われたくねえんだよ」と睨んだ。
慌てた周囲が場を取りなしたものの、太田プロ側はこれで出演の話はご破算と思った。
しかし出演の話は消えず『THE MANZAI』は大成功し、中でもツービートは、初期こそB&Bや紳助竜介、ザ・ぼんちを筆頭とする関西勢に先行されたが、希少な東京勢で明らかに異質なスタイルのツービートは、アイドル人気さながらの関西勢とは一線を画した。
まずファンには男性が圧倒的に多かった。とりわけ大学生から若手サラリーマンといった「新しい笑い」と「質」を渇望する層に絶大な支持を得るに至り、第5回あたり以降(殿談)はさらなる支持の裾野を拡げるに至った。
ツービートこそ力づくで「天下に認めさせた」漫才師だったのだ。
横澤さんは件の出来事をのちに「たけちゃんには最初に脅かされた」と笑っていたが、横澤彪という人物の大きさなかりせばと思う。
やがて1981年5月に『オレたちひょうきん族』で8時台ゴールデンのレギュラーを得、状況は変わりつつあったが、それでもビートたけしというタレントが一般レベルにまで本格的な支持を拡げるには4年間という月日が必要だった。
ーーようやく『THE MANZAI』が成功したとはいえ、それ以前から業界全体が、ことビートたけしに限っては「アウェイ」の空気を醸成し続ける中、バラエティ界隈で影響力のある大橋巨泉という「強力な援軍」を当時の殿はどれほど心強く感じた事だろう。
ポイントはここだ。俺がボーヤに就く頃、殿には様々な協力者が既に存在していたが、多くが背を向ける頃から巨泉さんは一貫して殿を推し続けて来た、いわば「恩人」なのだ。
そして巨泉さんは具体的にはいわばビートたけしの「社交界デビュー」をアテンドした。ライフスタイルを次のステージに引き上げる“メンター”たる重要な役割をも果たしたと思う。
人間関係のグレードを上げるには、その界隈で信頼の篤い人物に引き上げて貰う必要があるのだ。
これにより、後に繋がる多くの人脈を得たのだった。
本来、同じバラエティ・ジャンルのタレントならば「将来の敵」と捉え、嫉妬心が起こってもおかしくはない筈だが、お互いが無類のジャズ好きである点で強い共感もあったのか、ともかく度量の大きな「粋人」だった。
そんな二人が逢うロケーションは、当時巨泉さんの定宿であったホテルオークラのラウンジの記憶が強い。
このホテルの利用者は皆、著名人に対してはそっとしておいてしてくれるデリカシーがあった。
巨泉さんから誘われ駆けつけたある日の場面。この日は午後から予定があり、当然時間に余裕はない。
車で待つ菊池さんから「終わりそうになったら教えてくれ」と、俺はいわばタイムキーパー役で臨席した。
朝食を摂りながら、プライベート用の度が強い眼鏡を掛け、気分が良さそうに殿と談笑する巨泉さんは、先週の番組収録に関連したちょっとしたエピソードや、海外で見聞した様々な最新の出来事を自分の考察を交えながら縦横無尽に、いつものように肚(はら)から出る大きな声で語りかけていた。
巨泉さんは殿と2人きりで話をするのが本当に愉しみなようで、自分のスタッフも余りその場に呼ばず、俺しか立ち会っていない事もしばしばだった。
こんな時、殿はどちらかと言えば聞き役にまわる。
そして時折、好奇心から素朴な疑問を投げかけるが、巨泉さんは「さすがだな、よくぞそこを聞いてくれた」とばかりにますます上機嫌で「それが違うんだよ、たけし」と饒舌に拍車がかかる。
ともかくその光景からは殿を「心底気に入っている」様子がありありと伝わって来た。自分が見込んだ男が、自分の期待通り活躍している事が相当に嬉しかったようだ。
この頃は「どうだおまえら。たけしがここまで活躍すると思っていたか?俺は最初から分かっていたんだ」と、連れ歩きながら皆に自慢をしたいほどの心境だったのではないだろうか。
ーーそしてこういった二人の光景を眺めながら俺はいつも不思議な感覚にとらわれていた。
巨泉さんは常に殿を気にかけ、今日も先輩として、朝食を供しながら世界中で得た新たな情報・知識を惜しげもなく授けているーーまるでそれが自分がなすべき「つとめ」であるかのように。
しかしこれらは一見、巨泉さんが殿の面倒をみているようでも、実は巨泉さんこそが殿を必要としているのではないかーーそう思えてしまうのだった。
そして殿は殿で、自分を早くから見いだし応援し続けてくれた結果、いよいよ確固たる地位を獲得しつつある「今こそ」巨泉さんに応えたいと思っていたのではないか。
そう、この頃殿は巨泉さんに、喜んでもらいたい(恩返しの色合いを帯びつつ)一心で、身を削るような殺人的過密スケジュールをこじ開け「応えていた」ように思う。
ただし、巨泉さんが自分と逢い楽しんでくれる事が同時に、殿にとっても何より無上の喜びだったようにも感じていた。
ーーある時、巨泉さんと会った直後に珍しく殿は「よぉ。どうだった?」と臨席した感想を求めて来た。
俺は「あれだけ喜んでくれると、本当に駆けつけた甲斐がありますよね」と、率直な感想ながらも今から思えば僭越に過ぎる返事をした。殿は笑みを浮かべながら遠くを見るような目をした。
ーー思えば出会うべくして出会った二人だったのではないだろうか。そして実はお互いが共に必要としていた切実な関係だったように思えて仕方がない。
もし人間に来世というものがあるならば、きっと二人はまたどこかで鮮烈な邂逅をするに違いない。
今回の訃報から昔の光景を想起し、ふと俺はそんな考えに浸ったのだった。
『地位も名誉も(金も)ないのは幸福だ』という幻想
ーー彼にとって、南ロンドンの街街は、楽しくて、愉快な、そしてまたすばらしい冒険の舞台だったのではないか・・・・・・わたしには想像できる、自分の家へかえりながら、この見知らぬ人間の家で、いったいおれは何をしているのだと戸惑っている彼の姿が。
とにかく彼がこれこそ自分の家と思えた唯一の家は、ケニントン・ロード裏のあの三階の部屋だけだったのだ。
ある晩、わたしは彼とロサンゼルスを散策していて、いつのまにか、同市でも極貧街へ足を踏み入れていた。汚らしい長屋アパート、けばけばした安っぽい商店、そしてそこでは貧乏人がやっと毎日買えるだけの商品が並べられている。
すると、チャップリンは急に顔を輝かせ、はずんだ声で叫んだのである。
『ねえ、これこそが本当の生活なんじゃありません?ほかはみんなインチキですよ』
[原註]わたしが言ったとされているこの言葉は正しくない。そのときわたしたちはメキシコ人街にいたのだが、実際にわたしが言った言葉はこうだった
『ビヴァリィ・ヒルズよりはね、ここのほうが活気がありますよ』
(新潮社:チャールズ・チャップリン著『チャップリン伝』より)
これに対しチャップリンはこうコメントしている。
他人に対し、貧乏というものを、さもいいもののように見せようとするこの種の態度は、まことに困りものである。
寡聞にしてわたしは貧乏に郷愁を感じたり、そこに自由を見いだしたりしている貧乏人というのに、まだ会ったことがない 。
多くの 一般人が著名人に対して寄せる『思い込み』として多いのは「著名人は名声を得たことで失ったものもあるに違いない。特に貧乏だった頃より自由が失われ、きっと、時折その頃を懐かしがっているのだろう」ーーといった願望的幻想と思う。
この感覚は日本人にも根強く、戦後蔓延した共産・社会主義思想の根底にある『清貧思想』即ち為政者による「貧乏を耐えさせる方便」だったのだが、これが現代では名残だけが在り続けて、それどころか美徳の域に達している。
この反動で日本人は「金儲け」を「悪」と直結させる傾向もうかがえる(本当はお金が大好きなのに)
これらの背景からか、ともかく「地位も名誉も金もない事が幸福だ」という方向へ持って行きたがる。
この著書でもチャップリンはこれに続く文で言下に否定している。
この幻想はビートたけしへも抱かれていまいか。
東京の下町足立区梅島生まれ、浅草に育てられた芸人。
確かにこれは紛れもない事実で、この「庶民性」がビートたけしが愛される要素の1つでもある。
しかし、自分がボーヤだった頃は足立区はおろか、浅草へもいかなる郷愁も抱いてはいなかった。
それは当時のタイミングもあるだろうと思う。
1985年からやっと殿は自分がやりたい事を自在にやれる状況が整い、それがすべて大当たり。
「人生これから」との大いなる意欲を抱く人間は振り返らない。当然の事だろう。
8時台の番組はすべて視聴率トップと、日本に「ビートたけし時代」が到来したといってもよい状況。
ーーしかしそんな最中、1985年の冬にこんな事があった。
細かなシチュエーションは忘れたが、あれは冬の寒い夜だった。
羅生門でメシを喰って、軍団とは散会。殿と2人徒歩でマンションへ向かう道中。ボーヤも1年を過ぎ、この頃殿は2人きりになると、ちょっとした愚痴を漏らしたり、時には軽い議論をするような距離感になっていた。
そして四谷四丁目の交差点、信号待ちだった。殿はそこそこに酒が入っていた。
「こんな寒い夜には思い出すんだよ。昔カネがなくて、友達んとこに行ってもよ、誰もカネ貸してくれなくてなあ。寒くて腹減って辛くてなあ、だから冬の夜ってのは大嫌い。」
と独り言のように言っていた。
殿は元々、自己への贅沢など興味もない。服はスタイリストから貰えるし、フグなど値の張る店に食事へ出かけても、一口食べるや「うまい!おまえらも食え!」と皆に勧め、軍団が喜んで食べている姿を見るのが楽しいような人なので、単純に「毎日カネを心配しないで暮らせる」だけで充分満足だったのかも知れない。
売れない頃は出勤時にコーヒー代を幹子さんにねだると「カネがない」とキツく拒否され、ケンカした話も聞いた。
また、これは別の機会に書くが当時は「昔のどん底時代に戻ってしまうのではないか」と常に恐怖心に駆られながら努力を重ねており、それはまさに身を削る「闘争」で、その状況たるや連日凄まじかった。
「過去への恐怖」を裏付ける場面ならいくらでもある。
無名時代のTV関係者のツービートに対する扱いも酷いものだった。
そんな殿は絶対に「カネも名誉も要らない」とは言わないだろう。
一般庶民は自己を肯定したがる傾向が強く、相対的な幸福感に生きるが故に地位のある者、富める者へ願望的幻想を抱きすぎる。
もとより、今の殿なら「貧乏で無名?やなこったい」と本音を述べても誰からも文句は出ないだろうが。
春一番が語っていた“ビートたけしの格好良さ”
春一番と毎日のように遊んでいた頃、彼の言葉で今でも記憶に残っているものがある。
ーー彼は殿を尊敬していた。
もちろん彼は本来、片岡鶴太郎の弟子なのだが、彼は日頃から「鶴太郎が死んでも泣かないが、猪木さんが死んだら俺も死ぬ」と明言していたように、完全に『猪木信者』で、鶴太郎さんの事は「鶴ちゃん」と普段から呼んでおり、厳格な『師弟』の在り方とはひと味違っていたようだ。
翻って芸人では彼にとって殿は完全に『別格』の存在だったらしい。
彼はのちに願い叶って『お笑いウルトラクイズ』に出演するのだが、その前の時期、彼は酒を酌み交わしながら『ビートたけしの格好良さ』を陶然としながらいつも語っていたものだ。
恐らく『おれたちひょうきん族』での事と思うが
「殿は現場のリハーサルでは髪が完全に寝起きのまま(要は寝癖がひどい)平気で姿を現すんですよ。そこへまぶしそうな顔をしながらタバコを喫っている姿が、本当に格好イイんですよねえ。ホント格好イイ。鶴太郎なんて、リハでもなんでもいちいち髪型を気にしてて。ダメなんですよねえ」
少々変わった感性の彼なので「妙な所に感心するんだなあ」とその時は話を聞いていた。
殿はとにかく自分の事に関しては面倒くさがり屋で、いつも「手を抜いても構わない」部分はバッサリと気にしないので、俺はいつも「まあそんなもの」と普通に捉えていた。
やがて、自分も人生経験を重ねる中で、そんな彼の言葉の数々をときおり反芻していたのだが、ある時不意に“彼の感じたもの”がわかった気がした。
自分も自身にとって『師』と呼べる人物は殿をはじめ数人いる。その界隈ではそれぞれに成功を成している人物だ。
そんな『師』と、その他様々に出会った『一流の人物』にはある共通点がある。それは
一流の人物は、どうでも良い事については全く無頓着だが、“ここ”と言う部分では一切妥協せず、全身全霊でことに当たる。
ダメな人物は、どうでも良いことばかりに気をとられ、“ここ”と言う場面なのに中途半端で対応が甘い。
ということだ。
春一番は、殿がリハーサルなど格好を気にする必要がない場面では全く無頓着で、いざ本番ではキッチリと見事な仕事をしてみせる姿の『差』にプロフェッショナルを感じ、それは、例えば身なりこそ粗末な浪人が滅法腕の立つ剣豪だったような『格好の良さ』を感じていたのかも知れない。
1986年刊 三遊亭円丈著『御乱心―落語協会分裂と、円生とその弟子たち』に見る「似た光景」
『御乱心―落語協会分裂と、円生とその弟子たち』は1986年刊で三遊亭円丈師匠が使命感をそのままぶつけたような、気のこもった本で現在は絶版。中古でしか入手は難しいと思う。
だが自分にとっては今でも格別の思いがある一冊だ。
ーー自分は入門当時から、落語界に別段興味はなかった。
TV番組の『笑点』を観てはいたが、轟音を立てて巻き起こった「マンザイブーム」を前にした時には「過去の遺物」としか映らなかった。
1985年の夏、談かんに連れられ、お中元を届けにと立川談志宅へ同行し、初めて本人に挨拶した際にも『立川談志』という「人物」を(名こそ知っているが)全く認識しておらず、『笑点』の初代司会者であった事などを後から知り、今さら後悔している。
そんな調子なので『三遊亭円丈』の名さえもそれまで知らなかった。
教えてくれたのは、間接的には殿だ。
ボーヤ2年目の春、いつものように迎えにあがると、殿がこの本を抱えてロールスロイスに乗り込んで来た。本を持って来る事自体はそれほど珍しくはない。
だが普段、不意にネタ帳を取り出し書き込むような姿はあっても、基本的に殿は車内で作業を行ったり、本を読んだりはしない。
読む場所はもっぱら楽屋で、思うに移動時間は貴重な「思索の時間」だったのだと思う。
車が走り出し、ミラー越しに確認すると、後方に流れゆく車窓の景色を見送りながら、いつも思索に耽っていた。
ーーそれがこの日は「貪り読む」との表現がピッタリなほど、この本を一心不乱に読んでいた。「車酔いするんじゃないかな」と心配するほどに。
この日は『元気が出るTV』の短いロケがいくつもあり、移動が多く、車の乗り降りがやけに多かった。
そこで出番待ちの時間と言わず、僅かでも時間が空けば、手元に置いたこの本に食い入っていた。
そのうち、本をなくしたと言い出し、移動中に書店に寄らせ、もう一冊買い求めた上で読み続けて(後から車のシートの隙間から見つかったが)いたほどだった。
そのあまりに普段とは違う姿に「そこまで今の殿を魅了させる本とはいかなる内容か」と、俄然興味が湧いた。
後から見つかった最初の1冊を譲り受け、自分もさっそく読むと、これが実に面白かった。
内容はタイトル通り、三遊亭の本流である三遊亭円生一門の、落語協会からの独立と新協会設立、そこから円生師匠の死までを追うのだが、何が一番面白いかと言えば、暗躍する三遊亭円楽をはじめとする門下の人間模様である。
ーーたけし軍団の内情と実によく似た光景がそこにはあった。
例えば『伝家の宝刀』の章55ページだ。
“大体弟弟子というのは、兄弟子に対し、「別にオメエが好きで弟子入りしたんじゃねェ。入門したらタマタマ、オメエがいただけじゃねェか」という気持ちを多かれ少なかれ持っているものだ”
膝を叩いて笑った。
また、同じく57ページ。
“兄弟弟子は、普段円楽のコトを「円楽サン」と呼んだ。普通、噺家の社会では相手が先輩だと必ず何トカ兄さんと呼ぶ。ところが彼を呼ぶときだけ、何故か「円楽サン」と呼んだ。そのコトで円楽は激怒したことがあった!(中略)しかしこのコトがあった後も相変わらず、彼を「円楽サン」と呼び続けた。ナントカ兄さんという言い方の中には、親しみと先輩としての尊敬の意味が込められている”
ーーこれにも感心し「発想は皆同じなんだなあ」と思った。
知られている事かどうか、セピア以上の先輩、10人の「たけし軍団」内にはほぼ「上下関係」がない。
最年長(タカ)から最年少(松尾、ユーレイ、ラッシャー)まで10才の幅があるのだが、10人の仲は「なあなあ」で、そこから下のセピアにだけ極端に「上下関係」を敷いていた。
日頃から「オマエらは軍団に入れず可哀想だ」「運がないんだから諦めろ」などと“俺たちは選ばれた人間だ”然とした事を言われ続けていたから「俺たち(軍団)とお前達は立場が違うんだ」とばかりに、意識的に線引きしたかったのかも知れない。
実に奇妙な状況で、所詮まともな「構え」のない理不尽前提の一門であると、頭では理解しながらも、納得してはいなかった。
しかしセピアもセピアで、新太郎や俺は軍団に対し“兄さん”と呼ぶ相手と“○○サン”と呼ぶ相手を分けていた。
“兄さん”から“○○サン”に、双方の間に起こった出来事で「格下げ」する事もあった。
別に申し合わせをしていたのではなく、個々で自然にそうしていた。
当然後者は嫌いな奴。円丈師匠が書いた通り“兄さん”は「親しみと先輩としての尊敬」を抱いている相手にしか使わないのだ。
絶対的かつ閉鎖的な状況で「上下関係」を強い、それを楯に人を人とも思わないような態度の先輩に対して出来る、数少ない弟弟子の「抵抗」とも言えた。
しかし軍団はそんな「意味合い」には一切気付いてはいなかった。
新太郎と長嶋に至っては独自の「符丁」を作り殿以下一切の人物に「隠語」を振り呼び合っていた。
ーーこの本を読み進むにつれ、俺は円丈師匠に対し強い親近感を抱いた。
普段表立って語る場面は少ないが、殿は落語界に対する動向には、常に強い関心があった。
もちろん殿は俺が気を留めているような箇所には別段関心はなかっただろう。メインテーマである落語協会分裂に至る顛末を、ただ好奇心のまま追いたかったに違いない。
外部の人間にとって、たけし軍団という一門の習性と、その内部の空気感は分かりにくい。
TV等で軍団達が語る話は殿との関係が殆どで、軍団間や内情にはあまり触れない。番組側も(視聴者)もあくまでビートたけしの側面に興味がありこそすれ、軍団自体にそれほど興味はないのだろう。
しかしこの本を読めば、どういった固有の「力学」が働いてるか概ね窺える。
殿から一番可愛がられたいと誰しもが熱望し、顔色を窺い、他を押しのけ点数を稼ごうと張り切ったり、半ば独占しようと意識的な行動をとったり、他のメンバーと常に比較し向けられる愛情の濃淡に胸を焦がす。
そこへの嫉妬や失望が日々渦巻いているーーというふうに。
この本では殿も門下である立川談志師匠に関しての記述があるが、辛辣に綴られてもいる。
ーーしかし俺はこの本を一度読了し、もっと後、終盤に書かれたある場面を、自分に重ね『五体』で読むことになる。
該当する記述は『恩知らず!』の章160ページだ。
ここがこの本の中でも最大の佳境だ。
そして俺にとって最も重要な箇所ともなるのだった。
“この日以後も俺と円生の二人の関係は、表面的には以前と全く変わらず続いた。俺は別に円生を恨みはしなかったし、憎みもしなかった。
また、円生も、あの罵声を少し長めの小言ぐらいにしか思っていなかったようだ。
俺と円生の関係は全く表面上は何の変化もなかった。だが俺の心は、円生を許しはしなかった。今もまだ許してはいない。
ただ、あの心の拷問で俺の円生を思う心が死んでしまったのだ(中略)俺は円生を憎んではいない。円生を恨みもしない。ただ円生を許しもしない”
ーー子細は殿の立場を鑑み書かない。ともかく俺も全くの「個人」として、これとよく似た事態と心境に陥ったのだ。他の誰も知らぬ、完全に二者間の出来事だ。
同じ章の154ページに円丈師匠はこう書いている。
“俺は黙って聞いていたが、聞いてる内にたとえ破門になろうと出ようと決めた。噺家になろうと思ったのも自分の意志だし、円生に入門したのも俺の意志だ。そして出るのも俺の意志なのだ”
この心情は俺の入門時からの意識と全く一にするもので、読んでいて軽く身震いを覚えた。
例えば軍団が酒を酌み交わしながら「俺は何があっても殿について行く」と半ば自己陶酔しつつ語る姿を眺めながら「“ついて行く”などと殊勝に聞こえる事を言うが、自分の意志で入門したなら、その先も自分の意志で決め、独り立ちするのが当然だろう。体よく殿にいつまでも世話になり続けるつもりなのか?それが正しい“弟子たる”姿勢と考えているのか?」と冷ややかな視線を送っていた。
ーー当時の俺にとっても殿は、身の総てを委ねる絶対的な存在だった。
しかしその前に俺は1人の人間であり、自身の意志と判断によりその人生を歩んでいる。
だから俺も入門時からこう思っていた。
“漫才師になろうと思ったのも自分の意志だし、ビートたけしに入門したのも俺の意志だ。そして出るのも俺の意志なのだ”と。
『師弟』の枠を外して考えるなら『人間と人間の関係』であり、そこで当時の俺はその「心の拷問」を許せなかったのだろう。
ーーその時の俺には怒りもなかった。ただただ胸中は空疎だった。
俺はその時に「殿を念(おも)う心」に自分の中で一つの区切りを付けた。
今でも尊敬しているし、あの時代の体験はすべて誇りで、心中では「おやじ」と呼んでもいる。殿の活躍を見ることは自分の喜びに等しい。
ーーきっと殿は今ではあの時の事はすべて済んだものと思っているに違いない。しかし今も俺はその事を決して忘れる事が出来ない。
俺はその日は眠れぬまま、マンションの屋上で朝日を仰いだ。
そして時間が経つ中で、ようやく空疎を乗り越え、ひんやりと澄みきった心で思った。
「これは殿から離れるべき時が来たのだ」と。
それまで、何度もボーヤ交代(俺の事を考えて)の話が出る度に懇願し延長を繰り返し2年近くも傍にいた。
じっさい、学ぶべき事柄は夥しく、その意欲が尽きる事はなかった。総てに捨て身で、大げさではなく命を張る念いで挑み、無我夢中で盡(つく)す喜びを感じる中で、結局は殿の人柄と魅力から離れる事が出来なくなっていたのだが、まさかこんな形で『時』が来るとは予想していなかった。
もちろんこれら俺の心情に関しては殿も軍団も知らない。
単純に俺がボーヤを終えたので、コンビを組み、相棒を殿に紹介し、世話になった番組関係者各位すべてに礼と挨拶をし、恙なく離れたとしか思っていない。
これは自分で決める事だと思ったし、相談の必要はない。ともかく俺はこれらの決心をした。
実際には切り出すタイミングを窺う期間があったが、もう一つ決定的な出来事があり(子細は別の機会に譲る)この事もあり、その翌日に意を決し具体的な行動をとった。
この時は総てを決めてから大阪百万円とラッシャーにだけは打ち明けた。
各位へ挨拶を終えた、本当の最後に最も世話になったラッシャーへ挨拶をしたが「お前、すごいな。よく辞められたな」と言われたがこれは実に深い言葉だ。
そう、皆「辞めることが出来ない」のだ。決して良い意味ではない。
ーーこの本では最終的に円生師匠が亡くなり、三遊亭の「本流」は潰えてしまう。
一門は散り散りばらばらとなり、他の門下へ世話になったり、落語協会の預かりの身となった。
果たして、ビートたけし亡きあとのオフィス北野はどうなるのだろうかと、つい案じてしまうのだ。
俺はこの本で感動し、芸人として成功した暁には円丈師匠にこの本での感動を直接伝えたいと思っていたが、今となっては時間も限られているだろうから、シロウトの身でもいいので近々、なんとかして会いに行きたいと考えている。
ーー話は変わるが、人生には数奇な出会いがあるもので、この本の中に「三遊亭楽太郎」で登場する6代目三遊亭円楽師匠とは数年ほど前に、とある人物を介して知り合い、一時期は年末年始の宴席で場を共にし親しくさせて戴いた。
もちろん円楽師匠は今でも俺の出自を知らない。知ればとたんに状況は面倒になるし、現実的に今の俺は正真正銘のシロウト、一般人だ。利害なく純粋な人間関係を深めたのだ。
それにしても物事には一つ一つ意味がある。今振り返ると心からそう思う。
このように自分にとっては思い入れの強い書であるが、ビートたけしが一体何に興味を抱いてきたのか、より深めたいと考える者にも一読の価値があるだろう。
ビートたけしは「俳優いかりや長介」の夢を見るか?
少し前のものだが、このインタビューの雰囲気がいい。
内容というより、二人の距離とその間を漂う空気感が。
西島さんは別な場で「私はたけしさんの弟子です」とも語っているが、実際『弟子』と名乗るにふさわしい方だと思う。
『弟子』とは師に学び、その『学び』を自らの『個』へ採り入れ、換骨奪胎した上で自分のものとし『実力』で結果を出した者だけに名乗る権利がある(守・破・離とも云う)
結局、多彩な活躍を見せたビートたけしの正統な「弟子」とは、このように(いわゆる)軍団以外から登場するものなのかもしれない。
傍に長くいれば痲痺し狎れてしまい、学んだものを活かそうとも思わなくなる。
本題だが、ここで殿は「役者としての俺は下手だよって普段から言っているんだよ。ひどいときには「俺はカンペがなきゃやんないよ」とか言っているし(笑)」
と語っている。
自分は過日のデビッド・ボウイ死去の報に際し自然、出演作である『戦場のメリークリスマス』を想起し、共演者であった「役者ビートたけし」にも連想は及んだが、そこで昔の出来事を不意に思い出した。
ーー確かあれは1987年頃だったと思う。
高視聴率を誇った人気番組『8時だョ!全員集合』が16年の歴史に幕を下ろし、それに伴い、ザ・ドリフターズとしての活動は休止し、リーダーであったいかりや長介さんは俳優活動に身を投じた。
そしてNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』では一定の評価を得るに至った。
そんな頃、どこか局の楽屋だったと思うが、たけし軍団を前に、リラックスした場で殿が不意が言った。
「いかりやさんは役者やってもやっぱ“ドリフターズのいかりや長介”だよな。どうみたってよ」と笑っていた。
自分なりに『独眼竜政宗』あたりを観た感想なのだろう。
ただし、こんな時、眼前の我々は実にリアクションが難しい。
ーー誤解しないで欲しい。
「ビートたけしが先輩であるいかりや長介を批判した」などと云う単純で薄っぺらな捉え方はやめて欲しい。
これは、今では少なくなった「生粋の江戸っ子」固有の特徴でもある。
普段から裏表がない代わりに「そんな事言っていいのかよ」と周囲がギョッとするような本音を時折ペロッと口にする。
本音には違いないが「悪口」とも違う。
それも「悪意」だとか感情にまみれた陰湿さを一切孕むものではなく、カラッとした調子で言ってのけるのだ。
ーーやはりキャリアの殆どが最前線のバラエティであったタレントに、その先入観を抜いて、劇中の役柄を純粋に観ることは難しい。
それは自分も言われてみれば以前から感じていた事でもあった。
その後、火曜サスペンス劇場の『取調室』シリーズで水木正一郎警部補役からはじまり、他の作品でも次第に刑事が「はまり役」となっていったように思う。
今思えば亡くなるまでの20年近くを俳優として活躍したのだ。
ーーしかし、前述の言葉を受けて考えるに、殿自身はどうなのだろう。
自分も、どのTVドラマや映画の出演作品を観たとしても客観的に「配役」として捉える事が難しい。というか正直言って全く出来ない。
どうみても「バラエティのビートたけしが映画に出ている」としか思えないのだ。
ただし自らの監督作品では「本当は出たくないけど興行収入を考えるとプロデューサーから“出て欲しい”と言われる」と嘆きつつ、不本意ながらも出演する理由も語っている。
特に主演になると「ビートたけしのプロモーション」としか思えない結論がある。
観ている自分は、やはりストーリーそのものに没頭しているとは云いがたい。
「ある時代にどこかの場所でこんなストーリーがあったのだ」という「リアリティ」がほとんど感じられない。
皆はどうなのだろうか。
どうもこれは「演技力」の次元ではなく「過剰な存在感」の仕業なのかもしれない。
例えば自分が殿の監督・出演作品で好みのものを挙げるなら、自身の人生を大団円式に振り返る『キッズリターン』(これは殿のメンタルから掘り下げ、別の機会に分析したい)
キッズ・リターン - 劇場予告編 (Takeshi Kitano)
なぜか唐突で変則的なタイミングに制作された、冷静に考えるなら背景と動機に『謎』多き『菊次郎の夏』(これも一度、考察を踏まえて別の機会に掘り下げたい)
ーーこのあたりだろうか。
冒頭の西島秀俊さんが主演された『Dolls』(これは殿の極めて内省的な部分が投影された作品であるが、諸般の事情から今は評価を控える)も大変気になる作品だが、最後までしっかりバランスさせる事が出来なかったと思う。
『Dolls』予告編 北野武 トレーラー Trailer trailer
やはりこの3作中2作は『役者ビートたけし』が存在しない。残りの1作も実は奇妙な立ち位置で出演している特殊な作品だ。
そもそも論として、北野作品はいずれも動機に必ずその時々の内省性が加味される「手強い作品」と思う。自分もここでは「好き、嫌い」形式の単純な評価を下す気はない。
ーー別の場で殿が語っているが「映画を撮るようになって監督の気持ちがわかるようになった。だから他の監督作品では言われたとおりにやって余計な事をやらない」との事だから、他の監督での出演作品は、本人には与り知らぬ部分でもある。
ーー結局自分は、あの当時殿は「俳優いかりや長介」をああ評したものの、結局今度は「俳優ビートたけし」が同じ立場になったのではと感じた。
あの時の言葉を殿は果たして覚えているのであろうか。
そして「今ならどう思いますか?」と是非問うてみたい。きっと答えは当時と違っているはずだ。
2016/1/10デヴィッド・ボウイ死去〜個人的な想いを寄せて〜
amass.jp/11
誰しも様々な縁やキッカケを重ねながら人生を歩んでいる。
自分もそれは同様で単純ではなかった。
小学校時代からロックに傾倒した自分は“Ziggy & Iggy”の頃からデヴィッド・ボウイが好きだった。
そしてビートたけしへの念いを胸に上京した1984年には下記の要素が密接に絡み合っていた。
- 「東京ロッカーズ」で中心的存在、MOMOYO率いるLIZARDの「浅草六区(バビロン・ロッカー)」とビートたけしの「浅草」との符号。
- 当初音楽の道を志していた同級生の事故死(彼が音楽仲間では一番親しかった)
- デヴィッド・ボウイのアルバム「Diamond Dogs」から9曲目“1984”の存在。
3.のアルバム「Diamond Dogs」はジョージ・オーウェルの小説『1984』にインスパイアされている。
読んだ方もいると思うが、要は社会主義国家の究極「管理社会」への警鐘である。
そんな自分の政治的意識の下敷きには、先に挙げたMOMOYOさんの強い影響がある。そもそもブリティッシュロックも政治的なメッセージが強い。
パンクムーブメントもゴリゴリに政治的なメッセージに溢れている。
MOMOYOさんはストラングラーズのJJバーネルに見いだされたが、MOMOYOさん自身も水俣病を訴えた「SA・KA・NA」というミニアルバムを自主制作(メジャーリリースは金儲けに繋がるため)でリリースするなど、社会問題を楽曲に込めるアプローチを続けていた。
このLIZARDを俺に紹介してくれたのが事故死した2.の友人だった。
これらの要素が「必然」として絡み合った上で、最後に「管理社会」へ警鐘を鳴らすボウイの“1984”に自分の中の「何か」がキリキリと反応し行動を起こさせた気がする。
また数奇な点としてボウイは、1983年に『戦場のメリークリスマス』でビートたけしと共演を果たしているが、この2人の誕生日は1947年1月8日と1947年1月18日と、10日違いの同年齢だったのだ。
しかしそれを2人が認知しているかは分からない。
ボウイは結局自分の69回目の誕生日まで頑張ったと言うことだろうか。
ーーボウイはその耽美的印象に反し、以外と政治的作品の関わりがある。
上記作品の他に1986年の冷戦下、核戦争の脅威を訴えた英作家レイモンド・ブリッグズ作マンガの映画化作品『風が吹くとき』の主題歌も自ら参加している。
David Bowie When the wind blows
冷戦は終結したが、核の脅威は今日まで続いており、この曲に込められたメッセージは今もなお説得力を湛えている。
ーー69才という年齢も言われてみれば、自分の齢も51となり、おどろくものではないが、過去にまばゆい記憶を与えてくれたヒーローはどこか永遠に死なないものと錯覚している部分がある。
それだけに「あ、ボウイも死ぬんだ」と今回の訃報に際し間抜けな反応をしてしまった。
言うまでもなく、彼の影響は日本でも強く、BOØWYもその名の通り、デビッド・ボウイに影響されたバンドで、そのフォロワーがグレイであり、その他「ビジュアル系」と一括りされるアーチストはボウイに連なる存在と言えるだろう。
さて、来週はたけしさんの69回の誕生日だね。
たけし軍団発“幻”のアイドル“トリオ”
1985年の年明け早々、殿へ水島新司先生から相談があった。
「ウチの長男(新太郎)が今年高校卒業で、役者の勉強をしたいと言っている。たけしさん、どこかいいところ(劇団や養成所)知らないですか」というものだった。
それに対し「だったら、劇団じゃないですが、よかったらウチで預かりますよ」と返した。
そんな経緯で新太郎は軍団に加わる事になった。
彼は“左腕の剛速球投手”の夢を水島先生に託され、幼少時から左利きで育てられた。
しかし高校入学までは順調だったかに見えたが、子細はさておき、既に彼は野球を辞めてしまっていた。
それでも堀越という校風故か彼は芸能界を志向していた。
状況は1984年末から自分、大阪百万円と、その前から宙ぶらりんな存在であった吉武、出戻りの古田とまとまった人数が揃いはじめていた頃。
まもなく談かんを通じて
「新太郎が軍団に加わる事になった。しかし言っておくがオマエらとは身分が違うからな」
と言い渡された。
このように“一言気に障ることを言う”のが彼のクセだ。
預かり先は西新宿の『ゆたか荘』から中野坂上『小林荘』に移転したばかりの談かん宅。その時点で次の住まいを決めあぐねているユーレイと大阪百万円。そして俺がいた。
この3人は『ゆたか荘』からの居候。この時代は『小林荘』の最盛期だった。
(のちに部屋を決めたユーレイが先に出、春には殿の指示で、大阪、大道は東宅へ移転、新太郎だけが小林荘に残った)
5人が同居していた『小林荘』はさながら合宿所で、今振り返ってもこの頃が一番楽しかった。我々も「この先はなんとかなるだろう」と若さ故の無根拠な自信もあった。
談かんは木造のアパートが好きで、この『小林荘』も古い建物だった。ほどなくファンにもバレるのだが、そんな「ユルさ」も半ば楽しんでいるところがあった。
さて、この時期は振り返ると『ビートたけしバラエティ黄金期』のはじまりで、スケジュールは殺人的に過密。
江戸っ子の気風で威勢のいいことを水島先生へ言ったものの、現実的には殿本人も新太郎の事を考える暇(いとま)などない。
そのため一旦太田プロに託し、方向性として“お笑いではなく役者へ繋がる道筋”へと模索に入った。
この頃はとんねるずがフジテレビの『オールナイトフジ』を根城にブレイクしはじめた頃で、業界では彼らの“二匹目のドジョウ”狙いで“ちょっと口が達者で見映えのするコンビ”を大手プロダクションが急造し推す動きが流行った。
中山秀征がいた『ABブラザース』などもそうだった。
そんな業界のトレンドはいかにも軽く、完全なる“ビジネス”視点でありお笑いを“甘く見ている”としか思えないもの。
当然殿は「あんな風にはさせない」と考えていたようだった。
しかし検討の末結局は「マスクもいいし、とりあえずアイドルをやらせよう」となった。
今思えば当時の殿はチャレンジ精神旺盛ーーといえば聞こえがいいが「オレがやればなんでも成功する」と信じ切っており、確かに自己の守備範囲ではそこから“自分の時代”を築き、大成功するわけだが、俺個人の感覚としても『浅草芸人』に“アイドルのプロデュース”はさすがに埒外な感は否めなかった。
プランニングは春以降も続き、まず草野球で新太郎が助っ人でいつも声をかけていた堀越の同期(当時東芝府中野球部)長嶋に白羽の矢が立った。
彼は特別にマスクが良いわけでもない。今思えば“安直”と思う。
殿は「野球をやらせると性格が分かる」と日頃から言っていたから、あるいは長嶋の人物を草野球で接する中でそれなりに掴んでいたのかもしれない。
「おい。あの長嶋って奴今度呼んでこい」
と呼びつけ
「新太郎とアイドルをやらないか」
ともちかけたのだった。
それと同時にたけし軍団以外に増えてしまった“セピア”の事もあれこれ日常から考えていたようで、顔が“素”でお笑いにしては中途半端、では“男前”かと言えばそうでもなく「多分お笑いは無理だろう」と思われていた(と思う)俺に「トリオの3人目のメンバーならギリギリいいだろ」と考えたかどうかは定かではないが、日テレの楽屋で声を掛けてきた。
「大道。新太郎と長嶋と一緒にアイドルやれ。明日から一緒に行動しろ」と命令が下った。
当時は“殿の言葉は絶対”で、俺もボーヤをやる以前で、普段話をする機会もなかった。だから緊張を伴って「ハイッ!」と元気よく思考することなく返事をした。するしかなかった。
その日から3人は仮称で『おぼっちゃま隊』と呼ばれた。この当時『トリオ』と言えば『少年隊』だった事から自然とそうなった。
ーーさっそく翌日から青山のビクタースタジオに通いボイストレーニングに励んだ。
だが3日も経った頃、徐々に耐えられなくなった。
勧められるまま美容室で“それ風”な髪型にしてみたり、太田プロ事務所に呼ばれ、デビュー用コスチュームの試作品の採寸とチェックをしたり、それなりに準備は進んでいた。
ーー俺はお笑いの勉強をしに入門したのであって“なんでも良いからTVに出たい人間”とは違う。“ビートたけしのそばにいたい”わけでも、当然“たけし軍団に入りたい”わけでもない。
ハナから「自分で漫才を組んでそのうちここを出よう」と計画を決めていたのだ。それだから今回の流れに対する違和感が凄まじかった。
そんなある日、ファンレターを取りに太田プロへ行った際、居合わせた磯野勉社長へ不安な胸の内を吐露した。
社長は普段から何かと俺に気遣ってくれる方で、自分も慕っていた。なんでも話せる空気をいつもつくってくれる人だ。
穏やかな笑みを浮かべながら
「そうか大道君は不安か」
と頷きつつ話を聞いてくれた。そこへ副社長が会話に加わり
「大道。でもお笑いは本当に難しいよ」
と厳しい口調で言った。
太田プロは1960年前半に設立され、ホリプロ、ナベプロら大手より数年遅れたものの、落語、伝統芸能以外の演芸系事務所としては20年の歴史がある。そこからの経験なのだろう。その言葉には深さと重みがあった。
意を汲めば「どうせお笑いでは成功など望めない。せっかく機会をもらったのなら、やるだけやってみなさい」と聞こえた。
これはのちに猿岩石をお笑いよりアイドルの方向性で売った方針と一貫している。
とはいえ、それからも、今から思えば二週間程度の事だったが、新太郎と長嶋はそれなりに心を決めてレッスンに励んでいた傍で、いよいよ迷いながら関わる俺は心苦しくなった。そして限界に達した。
こうなると相談する相手はラッシャー板前しかいない。
いまでも俺にとって本当の意味で“兄さん”と呼べる存在。幸い当時は同じ『四谷サンハイツ』の3Fと2Fの関係で、じっさい一番身近な存在でもあった。
物事を常に真剣に考えており、軍団では“まれ”な人物だ。しかも男気がある。
「そうか。実は俺も心配していたんだ。大道はどう考えてるんだろうってね」
2Fの部屋で、相談に訪れた俺の話を聞き、咥えていたタバコを灰皿でもみ消しながら、しみじみと言った。
それはつまり、俺が加わる事にやはり傍からみても“無理”を感じていたのだろう。
そして、
「大道。だったら、殿にそれを直接言ったほうがいいぞ」
と言われた。
俺は少なからず驚いた。ボーヤでもなかった当時、殿にそんなことを直接言えるなどと考えた事もなかった。
この当時は完全に俺にとってありふれた表現ながら『雲の上の人』
普通に話が出来る対象とも考えていなかった。今回の事も『絶対命令』と思い込んでいた。
具体的に「どうしたら良いか」を問うと、当たり前のように「電話を入れた上で訪ねろ」といい、なおも戸惑う俺に“安心しろ”とばかりに相好を崩しながら
「殿はそういう話はちゃんと聞いてくれる方だよ」
とも付け加えた。
オフの日、在宅の時間帯に、意を決したものの、まだ迷いの残る指で電話を架ける。
「そうか、来いよ」
とあっけない返事。
急いで腰を上げ、小雨が降る中、『パレ・エテルネル』を訪ね、2人きりで向き合う初めての体験に、経験したことのない緊張が全身を包む。
ノックをし、リビングに入る。部屋には当時好んでいた男性用香水“アラミス”の香りがかすかに漂っている。そして顔を上げると目の前にはあの『ビートたけし』がいる。
本当に当時はまだそんな『距離感』だった。
部屋に入ると、床にあぐらをかいて座っていた。
神経質そうに、TV同様に目を瞬き首をカクカクさせつつ、時折りまぶしそうに目を細めタバコをくゆらせている。そしてぶっきらぼうに
「話ってなんだい」
と言葉を投げた。
促されるまま、ここ数日の心情と自身の考えを全て話した。
ひと呼吸間があいた。
新たなタバコを一本手に取り、逆さにし、とんとんとタバコの箱を叩き、火を点け、ひとふかし、煙をため息のように吐いてから口を開いた。
「誰かに相談したか?」
恐らく俺あたりの人間が直接電話して来る流れに何か察するものがあったのだろう。
「ラッシャーさんにしました」
「で、ラッシャーはなんて言った?」
「ハイ、殿は自分の考えを話せばしっかり聞いてくれる方だと」
「ふ、何を言ってやがる」
そういって「あいつ。生意気に」とでも言いたげに口元をほころばせた表情には、ラッシャー板前と殿との軽くない信頼関係が透けて見えた。
そしてやや思案があり、口を開いた。
「そうか。でもあれだな、オマエが自分から“抜けたい”と言ったと知ったら、あとの2人は気分が悪いだろう。オマエらの人間関係もあるだろうから、おれがうまくそこは言っとくからな」
ーー拍子抜けした。
“お前は何様だ”
“俺に言われた事が出来ないのか”
“どういう勘違いをしてるんだ?”
などと、厳しい言葉があるかと思っていたし、あるいは
“そうか、じゃあ今日で(俺の所は)やめていいぞ”
などと言われる覚悟もしていた。
ラッシャー板前から、ああは言われていたものの、ビートたけしという人物はそんな、アッサリと冷酷な言葉で手を下しかねない、残酷な気配も同時に漂わせていた。こういった面は傍にいなければなかなか感じられるものではないが。
だが、予期していた“厳しい言葉”も、結局それは“相手にしてくれている”次元であって、当時の自分などは切った方が早い程度の存在だったはずだ。
ともあれ、場を辞し翌日、TV局の楽屋で軍団全員が揃う前で「大道がおぼっちゃま隊から外れる」旨、殿から発表があった。
そこでは
「大道は性格が暗いからアイドルに向かない」
などと、あくまで「殿の判断で外した」事を強調していた。
自分はその配慮にひたすら申し訳のない心持ちだった。
その後、殿はユーレイを代わりに入れてみるなど試行錯誤をしたが、結局正式名称を『おぼっちゃま』とし、デュオの形でデビューさせる事になった。
彼らはシングル4枚までリリースをしたが、事務所がオフィス北野に移行する中で、活動は半ば自然消滅となった。
ともあれ、一時期は『トリオ』のセンで進められていたのだったが、今考えても、どのみち、あらゆる面から、あり得なかったと思う。
だが、自分にとっては二人きりで話をした最初の機会と、後にボーヤ志願へ繋がる『ビートたけしの体温』を直接感じる事が出来た、忘れ得ぬ場面だったのだ。