呼び捨ての粋人(すいじん)〜追悼・大橋巨泉〜
永六輔さんに続き、7月12日に急性心不全で大橋巨泉さんが亡くなった。
『大橋巨泉を偲ぶ会』では殿が巨泉さんへの想いを語っている。
俺からみても、殿にとって巨泉さんは本当の意味で“特別な存在”だったと思う。
俺がボーヤに就いた1985年には『世界まるごとHOWマッチ』は既に2年目。レギュラー番組として毎週のルーティーン・スケジュールだった。
殿はこの番組以前から巨泉さんにはずいぶんと可愛がられており、石坂浩二さん等『世界まるごと〜』のメンバーを中心に皆で海外旅行や、別荘を分譲購入するなど「ファミリー」の付き合いがあった。
しかし殿も1985年以降の大ブレイクで「日本で最も多忙なタレント」となり、次第に巨泉さんからの誘いもすべてに応じる事は難しくなった。
当時はあまりの過密スケジュールぶりに、移動の車中で「菊地さんさぁ。仕事減らそうよ、俺本当に死んじゃうよ」とぼやく光景は日常だった。
そんな最中「忙中閑あり」ではないが、タイミングさえ合えば、例え短い時間でも巨泉さんに応じ、食事をしたりゴルフや打ちっ放しに行くなど一緒に過ごす時間(とき)を持った。
そこには「巨泉さんだけは特別」との意志を感じた。
また、殿が草野球からゴルフへ移行しはじめたのもこの頃で、それまで「どこが面白いのかわからない」と、公然と否定していたゴルフも、巨泉さんに誘われるまま、出向く頻度が増え次第にのめり込んでいった。
ーー俺から観た巨泉さんの存在はビートたけしを“たけし”と呼び捨て出来る数少ない人物。
当時殿は38才であったが、横澤彪さんも“タケちゃん”だったし、呼び捨て出来る人物はそういない。
他には立川談志師匠、星野仙一さん(後から同年齢であると判明)、山城新伍さんなど。
呼び捨てが出来ると言うことは、芸能界の絶対的な先輩で、遠慮のない関係とも言える。
この頃、殿の知名度はついに「全国区」となり日本でその名を知らぬ者はいないレベルに到達していた。
周囲もそれは認知しており、糸井重里氏をして「あとは総理大臣しかない」と言わしめたほど。
しかしそれと時を同じくして、「ビートたけしの成功にあやかろう」とばかりに昔の友人・知人が頻繁に訪ねて来るようになった。
目的はほぼ同じで、自分を、或いは自分の事務所のタレントを番組で使って欲しい、ビジネスを援助して欲しい等々。
ビートたけしの成功は一定の者達の目には「利用できる金蔓(かねづる)」としか映らなかったようだ。昔はともかく、そんな彼らは、もはや「気の置けない友人」であろう筈もない。
例え薄くとも、利害が絡めば人間関係は濁りを孕む、友人が友人でなくなってゆく。
そのような状況に置かれ続けたせいか、結局殿は当時、信頼出来る友人として芸人仲間では漫才ブーム時代の“戦友”(島田)洋七師匠とたまに会う程度となっていた。
ーーしかし巨泉さんはそんな彼らとは真逆の存在だった。
成功したタレントの大先輩、あるいは“兄貴分”として、あらゆる場において早い時期からビートたけしを宣伝・宣揚し「この俺が言うのだから間違いない」とばかりに価値を高めようとし続けた。
この状況を本当に理解するために、まず当時の背景を識る必要がある(ただしこれらは当時を識る方々から聞いた話の再構成だ。当事者個々人で見解の相違はあると思うので、そこを踏まえて欲しい)
一般的にはオールナイト・ニッポン(1981年)辺りからのファンが多いと思うが、ツービート時代『THE MANZAI(1980)』以前の殿は業界からは真っ二つの評価だった。いや、ほぼ干されていたと言って良い。
年齢は三十路をゆうに過ぎ、二人の子持ちと、今の時代とは違い社会的なプレッシャーも凄まじい。
しかし特定の層からは強い支持があり、本人の芸に対する自信も揺るぎないが、特にTV業界は冷やかだった。いつの時代にも新たな潮流の勃興は、選ぶよりもまず避けられる。スポンサーを慮るビジネス構造からの宿命だ。
それでも生来の気性から媚び諂(へつら)いは一切しない。しかしそれらの「実力と現実のギャップ」から来る鬱憤は、やがて憎悪に近い苛立ちとなった。そしてようやく、ある番組がキッカケで、やっとその才能が天下に示される事となる。それが『THE MANZAI』だった。
ーーこれは横澤さんから聞いた話。
時期は『THE MANZAI』が企画された1979年から1980頃。出演者とスタッフが初顔合わせの場だった。殿をその場に認めた横澤さんは歩み寄り声を掛けた。時にビートたけし33才、横澤彪42才。
「君がたけし君か、よろしくお願いね」と笑顔で語りかけた。
すると殿はいきなり横澤さんの襟首を掴み自分の顔に引き寄せ、ドスのきいた声で「おれはな。テメエなんかに使われたくねえんだよ」と睨んだ。
慌てた周囲が場を取りなしたものの、太田プロ側はこれで出演の話はご破算と思った。
しかし出演の話は消えず『THE MANZAI』は大成功し、中でもツービートは、初期こそB&Bや紳助竜介、ザ・ぼんちを筆頭とする関西勢に先行されたが、希少な東京勢で明らかに異質なスタイルのツービートは、アイドル人気さながらの関西勢とは一線を画した。
まずファンには男性が圧倒的に多かった。とりわけ大学生から若手サラリーマンといった「新しい笑い」と「質」を渇望する層に絶大な支持を得るに至り、第5回あたり以降(殿談)はさらなる支持の裾野を拡げるに至った。
ツービートこそ力づくで「天下に認めさせた」漫才師だったのだ。
横澤さんは件の出来事をのちに「たけちゃんには最初に脅かされた」と笑っていたが、横澤彪という人物の大きさなかりせばと思う。
やがて1981年5月に『オレたちひょうきん族』で8時台ゴールデンのレギュラーを得、状況は変わりつつあったが、それでもビートたけしというタレントが一般レベルにまで本格的な支持を拡げるには4年間という月日が必要だった。
ーーようやく『THE MANZAI』が成功したとはいえ、それ以前から業界全体が、ことビートたけしに限っては「アウェイ」の空気を醸成し続ける中、バラエティ界隈で影響力のある大橋巨泉という「強力な援軍」を当時の殿はどれほど心強く感じた事だろう。
ポイントはここだ。俺がボーヤに就く頃、殿には様々な協力者が既に存在していたが、多くが背を向ける頃から巨泉さんは一貫して殿を推し続けて来た、いわば「恩人」なのだ。
そして巨泉さんは具体的にはいわばビートたけしの「社交界デビュー」をアテンドした。ライフスタイルを次のステージに引き上げる“メンター”たる重要な役割をも果たしたと思う。
人間関係のグレードを上げるには、その界隈で信頼の篤い人物に引き上げて貰う必要があるのだ。
これにより、後に繋がる多くの人脈を得たのだった。
本来、同じバラエティ・ジャンルのタレントならば「将来の敵」と捉え、嫉妬心が起こってもおかしくはない筈だが、お互いが無類のジャズ好きである点で強い共感もあったのか、ともかく度量の大きな「粋人」だった。
そんな二人が逢うロケーションは、当時巨泉さんの定宿であったホテルオークラのラウンジの記憶が強い。
このホテルの利用者は皆、著名人に対してはそっとしておいてしてくれるデリカシーがあった。
巨泉さんから誘われ駆けつけたある日の場面。この日は午後から予定があり、当然時間に余裕はない。
車で待つ菊池さんから「終わりそうになったら教えてくれ」と、俺はいわばタイムキーパー役で臨席した。
朝食を摂りながら、プライベート用の度が強い眼鏡を掛け、気分が良さそうに殿と談笑する巨泉さんは、先週の番組収録に関連したちょっとしたエピソードや、海外で見聞した様々な最新の出来事を自分の考察を交えながら縦横無尽に、いつものように肚(はら)から出る大きな声で語りかけていた。
巨泉さんは殿と2人きりで話をするのが本当に愉しみなようで、自分のスタッフも余りその場に呼ばず、俺しか立ち会っていない事もしばしばだった。
こんな時、殿はどちらかと言えば聞き役にまわる。
そして時折、好奇心から素朴な疑問を投げかけるが、巨泉さんは「さすがだな、よくぞそこを聞いてくれた」とばかりにますます上機嫌で「それが違うんだよ、たけし」と饒舌に拍車がかかる。
ともかくその光景からは殿を「心底気に入っている」様子がありありと伝わって来た。自分が見込んだ男が、自分の期待通り活躍している事が相当に嬉しかったようだ。
この頃は「どうだおまえら。たけしがここまで活躍すると思っていたか?俺は最初から分かっていたんだ」と、連れ歩きながら皆に自慢をしたいほどの心境だったのではないだろうか。
ーーそしてこういった二人の光景を眺めながら俺はいつも不思議な感覚にとらわれていた。
巨泉さんは常に殿を気にかけ、今日も先輩として、朝食を供しながら世界中で得た新たな情報・知識を惜しげもなく授けているーーまるでそれが自分がなすべき「つとめ」であるかのように。
しかしこれらは一見、巨泉さんが殿の面倒をみているようでも、実は巨泉さんこそが殿を必要としているのではないかーーそう思えてしまうのだった。
そして殿は殿で、自分を早くから見いだし応援し続けてくれた結果、いよいよ確固たる地位を獲得しつつある「今こそ」巨泉さんに応えたいと思っていたのではないか。
そう、この頃殿は巨泉さんに、喜んでもらいたい(恩返しの色合いを帯びつつ)一心で、身を削るような殺人的過密スケジュールをこじ開け「応えていた」ように思う。
ただし、巨泉さんが自分と逢い楽しんでくれる事が同時に、殿にとっても何より無上の喜びだったようにも感じていた。
ーーある時、巨泉さんと会った直後に珍しく殿は「よぉ。どうだった?」と臨席した感想を求めて来た。
俺は「あれだけ喜んでくれると、本当に駆けつけた甲斐がありますよね」と、率直な感想ながらも今から思えば僭越に過ぎる返事をした。殿は笑みを浮かべながら遠くを見るような目をした。
ーー思えば出会うべくして出会った二人だったのではないだろうか。そして実はお互いが共に必要としていた切実な関係だったように思えて仕方がない。
もし人間に来世というものがあるならば、きっと二人はまたどこかで鮮烈な邂逅をするに違いない。
今回の訃報から昔の光景を想起し、ふと俺はそんな考えに浸ったのだった。