希土色の刻

KidocolorOhmichi's Reminiscences

消えた『ホワイト』な景色(1986年)

 振り返るに軍団セピアまでと、それ以後のメンバーとの間には決して小さくない「時代の切り替わり」ーー気取って言えば“カイロス(主観的・内面的な時間)”が横たわっていた。記憶に残る情景もこの前後ではまるで違う。

以前会ったガダルカナルタカは「殿は今でも“フライデー事件以前と以後のメンバーでは全く違う”とよく言っている」と語る。

いわんとする意味は「フライデー事件の時期に在籍していたか」ではなく、襲撃に加わった世代のメンバーとの区切り。芹沢や浅草キッドブラザース世代も含まれていない。

そして現実的に周囲の環境も大きく変貌していた。その要因は当時の時代背景にある。

ーービートたけしがバラエティ番組で成功し始めた1985年は、世間で言うところの『バブル期』だった。

俺も未だに当時の狂気じみた高揚感が、業界特有のものなのか、バブル期故だったのかが判然としない。なにしろ金のない我々下っ端でさえ、毎日いくらでも酒が飲めて遊べていたが、そんな状況は、到底まともではなかった。

やがてバブル景気は地価を押し上げ、四谷四丁目界隈も格好のターゲットとなり、殿の住まい(四谷サンハイツ)と太田プロがあった四丁目から三丁目間の新宿通り沿いが根こそぎ建て替わり、短期間ですっかり景色が変わってしまった。

それまではプラモデル屋や金物屋、和菓子屋、履き物屋、畳屋、バイク屋、当時太田プロが入居していた「四谷水喜ビル」の1Fには『山一電器』が入り、その右隣のビル1Fにはラーメン店『小次郎』と、個人経営レベルで普通の「商店」が立ち並び、どこか時間がのんびりと流れていた。

時折ーーそれは俺がサンハイツに出入りする際の偶然なのだがーー夕暮れ時の街並みを、仕事がオフだったのであろう、気まぐれに立ち寄った事務所(太田プロ)帰りの殿が、ficceのニットに黒の革パンツで、うつむきながらポケットに手を突っ込み、遠くからでもよく目立つ“がに股”で、こちらへ歩いてくる景色は、今思い返しても印象的で、まるで映画“タクシードライバー”のポスターのように「サマになる画(え)」だった。

猫背とがに股を心底格好良く感じさせるのはこの人だけだ。

ーーこの頃の殿は近所をひとりぽつねんと歩く事はそう珍しくなかった。パレエテルネル住まいの頃もポルシェはサンハイツの駐車場にあり、そこへは徒歩で行き来していた。

「何かあったらどうするんですか」と慮る周囲とは対照的に本人はまるで無頓着で、じっさいオフにはよく二人で書店巡りなど新宿の街を歩いたものだった。

徒歩なら意外なほど周囲には気付かれないものと知った。

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 上:1985年の四谷四丁目〜四谷三丁目間の新宿通り 下:現在 (ともに赤の囲みは四谷サンハイツ)

1984年当時、殿の住まいである『四ツ谷サンハイツ』の、新宿通りを挟んで反対側には低階層の古いビルやマンションが並び、今のセブンイレブン四谷4丁目店の位置には1、2階が鰯(いわし)専門の居酒屋『いわしや』があった。

そしてその地下にはあまりにも有名な伝説のバー『ホワイト』があった。

『ホワイト』をまともに語ると文字数が膨大になるので、仔細は書籍『白く染まれ』を読んで欲しい。

興味のある向きにはたまらない本だと思う。

実に様々な人物がこの店で交錯し、まるで『業界』を凝縮したような存在。こういった時代を掘り下げることもまた一興だろう。当時の景色も眼前に浮かぶかもしれない。

この本には殿も一文寄せている。

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狂奔するバブル景気で、古いビル群が軒並み取り壊され、次々に更地が露出する中、ついに『ホワイト』もビルの取り壊しが決まり1986年、六本木に移る。

しかしそうなれば殿からすると身近さに欠け「わざわざ行くほどの店でもない」とそれ以降、疎遠になった。

誤解を恐れずに言えば、それまでも帰路に“たまたま”在ったから寄ったに過ぎなかった。

当時四谷界隈は芸能事務所や出版社、レコーディングや撮影のスタジオが多く、そのせいか四谷三丁目の「英(ひで)」をはじめとして荒木町界隈にも業界人が集う「文壇バー」が数件あった。

地理的にも当時の主(おも)だったTV局から囲まれるように位置し、業界人は新宿や赤坂、六本木で飲みはじめて四谷・荒木町に流れるパターンが確立されていた便利なエリアだった。

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1986年当時はまるで“TV局のほとり”でも呼びたくなる位置関係。

ーーボーヤだった時期に俺は四谷サンハイツの2階に詰めていたが、この頃事務所へは『ホワイト』移転の挨拶を認(したた)めハガキが届いており、既に移転寸前だった。

話には聞いていたが、夜中に四谷四丁目の交差点で喧騒が耳に入ると決まってそれは『ホワイト』前の歩道で、たいがい内田裕也絡みだった。

それだから、外が騒がしい夜は「今日は裕也さんと誰が揉めているんだ?」とカーテンから覗く事はごく日常だった。

どういうわけか『ホワイト』でのケンカは決して殺伐とはしていなかった。

当時の“オトナ”は誰しも“ケンカ慣れ”しており、血みどろの殴り合いであっても決して生死に関わる事態にはならなかったのだ。

そしてケンカはいつも、皆が一目置くような人物が最後に割って入り一応収まっていた。

まだこの頃には暗黙ながら「オトナのルール」がどっしりと存在していた。

そして「オトナと子供の領分」が明確で『ホワイト』は各業界の若手にとって「オトナへの入り口」か、ある種の「社交界デビューの場」と言っても良い。

先輩が面白半分に『ホワイト』へ若手を連れて行く。しかし闇鍋よろしく誰が店に来ているかは分からない。メンツによっては、あるいは手荒い洗礼を受ける事もあるだろうが、前述の書籍を読む限り、何が起ころうが、たとえどんな目に遭おうが、のちにその場面を個々人は愛おしい記憶として胸中に抱いているようなのだ。

ーー殿も仕事帰りに気が向くと俺を連れ、酔いに任せて『ホワイト』に行く事があった。すると当時、左門町に住んでいた阿佐田哲也こと故色川武大がいたりと、誰かしら“文化人”と呼ばれる人種がいた(色川氏とホワイトで会った事はラジオでも触れていた)

抑えた灯りの下でタバコの煙越しに揺れる彫りの深い彼らの姿は、煙草を燻らせ、あるいはグラスを傾けるなど、それぞれが皆格好良く実にサマになっていた。

階段を降りてきた殿をミーコママがみとめると、促されるままカウンターに座り、一杯水割りを頼む。そして軽く店内を見渡しながら俺に「何だっけアイツの名前さあ、ほら最近CMに出てんだろ」と尋ねたり、脇で耳に入る会話に「アイツ生き方が軽いから、ホラ聞いてみろ、言葉に説得力がねえだろ」などと、さらりと毒づいたりしつつ、飽きたのか面倒にならないうちになのか、1時間を待たず切り上げ、慰留するママに「すまないね」といったふうに詫びながら笑顔を向け店をあとにする。

色川武大がいたときは、はにかみながらチャーミングに会釈(氏は浅草芸人が好きだった)する氏に招かれるように相席した。

しかし察するに『麻雀放浪記』程度しか認識のない殿は「いやあ、俺は先生が麻雀で負ける場面を観たいなあ」と、人の才能に畏敬の念を隠さず、例えば野村克也氏の前になると照れて様子がおかしくなり単なる野球少年に戻る姿同様、やはり自身も麻雀好きである事から照れて会話が続かない様子だった。

ーー思い出せば当時そこで会った人々は既に故人が多く、まるで夢の中の出来事のようにも思える。

今でも「そんな四谷はもうどこにもない」と分かっていても、俺の中にはあの頃の“無頼が似合う四谷”が印象付いている。

猥雑に濡れ光る路面と、あたりにたちこめる煙草のヤニとスコッチが混じり合った匂い。そして「はじまるぞ」と予感した通りにケンカが始まるーー

この年はFOCUSを後追いしたFRIDAYをはじめゴシップ写真誌が次々に創刊し5社体制となり、フライデー襲撃事件へ繋がる徒花(あだばな)が萌芽しはじめていた。

やがて各紙はビートたけし包囲網を敷き、じりじりと殿を追い詰めはじめる。夏以降にはいよいよえげつなさを増してゆく。

 『ホワイト』が在った頃の四谷は泡沫(うたかた)のバブルが支えた部分はあったにせよ、慥かにTV局のほとりに抱(いだ)かれた「オトナの文化」の香りがあった。

その後の四谷は、ビートたけし一門が事務所を移り、TV局も次々に移転、界隈はさらに数多(あまた)の建て替わりを経て無味無臭のオフィス街となっていった。

白く染まれ―ホワイトという場所と人々

白く染まれ―ホワイトという場所と人々